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古代史に戻って参りました(o^-^o)


さて、大仏の完成が見えたため、仏教に傾倒し「沙弥勝満」として聖武天皇が出家してしまい、

あわただしく譲位が行われたあと、

31歳の女帝の後見役として権力の中心に座ったのは、母の光明皇太后でした。


彼女は聖武天皇治世下の橘諸兄を中心とした政権からは一歩引き、

南家の次男坊である仲麻呂を抜擢します。


「続日本紀」の薨伝に

聡敏で書物のほとんどを読破し、

算術を学んでその道に精通すると記されるほどの秀才であった仲麻呂は、


746年に式部卿になって人事権を掌握すると、人事異動で諸兄の勢力を削いでいきます。


そして748年には参議のまま正三位に上り、

孝謙天皇即位ののち、749年には一気に大納言に昇進し

翌8月には紫微令と中衛大将を兼ねます。


この紫微令というのは、もともとあった光明皇后のための皇后宮職という家政機関を再編、拡大した「紫微中台」の長官です。


これは唐の玄宗皇帝の時代の詔勅を扱う紫微省(紫微とは天空で北極星を中心とした領域で天帝のいる場所)と

則天武后の秘書官的な役所の中台に由来し、実質は第2の国政機関でした。


当時、左大臣は橘諸兄、右大臣は南家の長男で仲麻呂の兄の豐成でしたが、

仲麻呂は光明皇后の信任を受けて、太政官の執政権を奪い取ったのです。


そして近衛兵にあたる中衛府の長官の任も得て、軍事権を掌握します。


このころ議政官は

左大臣 橘諸兄

右大臣 藤原豐成(南家長男)

大納言 巨勢奈弖麻呂、

             藤原仲麻呂(南家次男)

中納言 大伴牛養、石上乙麻呂、紀麻路

             多治比広足

参議     大伴兄麻呂、石川年足、

             橘奈良麻呂(諸兄長男)、

             藤原八束(北家三男)、

             藤原清河(北家四男)

でした。


あらあら、永手は弟二人に抜かされてた上に、参議にも先んじられたんですね (。-ω-)カワイソス


そしてこの一覧にあるように、

左右大臣の下位にいるはずの仲麻呂が、

左右大臣を差し置いて実権を握り


この後、政局は「光明ー仲麻呂体制」というべき状態になります。


さらに仲麻呂は大仏建立にも尽力して、聖武上皇の信任も得ます。


そして天平勝宝4年(752)4月9日

東大寺大仏の開眼供養の夜、

孝謙天皇は平城宮に戻らず、仲麻呂の田村第にしばらく逗留します。



東大寺大仏殿




これについては、孝謙女帝と仲麻呂の男女関係を疑う説もあったのですが、

当時の状況を考えると、万が一にも女帝を妊娠させるとも限らない行動はあまりに無謀だろうと考える意見もあり、

私も男女関係はないだろうと思うのですが、


母の光明皇太后が全幅の信頼をおく従兄に、孝謙女帝の気持ちが傾いていったのはあると思います。


のちの道鏡のときもそうですが、

孝謙女帝は自分を支えてくれる男性に依存する傾向があるのでは?と感じます。


私が永手の不遇について、安倍内親王(孝謙女帝)とのことで周囲に誤解を与えたためではないかと想像するのも、彼女の依存的な性格を踏まえてのことなのですが、


心で想うことしか許されない女帝の恋は、相手への傾倒になることでしか表せなかったのかもしれません。


どちらにせよ、孝謙女帝はこのころは心底、仲麻呂を頼りにしていたようです。


さて永手の方ですが、


749年の政界復帰以来、翌750年に従四位上、754年には従三位と急速に昇進します。


孝謙女帝、光明皇后にとっても牟漏女王の子である永手は、藤原氏の中でもとくに身内に近いことや、

仲麻呂にとっても味方に引き入れたいという思いがあってのことでしょう。


このような仲麻呂台頭の中で、755年、

諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したという密告があります。けれどもこれは聖武上皇が問題視せず、光明皇太后もとりなしをしたようで、不問に付されることになるのですが

翌756年2月に、これを恥じた諸兄は致仕(引退)します。


最後は仲麻呂に権力を奪われていった諸兄ですが、これで完全に橘諸兄政権は終わったのです。


これ以前から、諸兄の長男の橘奈良麻呂は、長屋王の遺児で不比等の次女藤原長娥子の生んだ黄文王の擁立を画策していたようですが、なかなか成就できず、


5月2日、聖武上皇崩御の際、

遺詔として道祖フナド王が皇太子にたてられます。


道祖王はのちに不比等と再婚した不比等の異母妹五百重娘が生んだ天武天皇の皇子新田部親王の子です。藤原氏系であるという点で聖武上皇に気に入られたのかもしれません。


これによって皇嗣問題はいったん解決するのですが


それから1年も経たない天平勝宝9年(757)年3月

孝謙女帝が道祖王は先帝の喪中にもかかわらず淫らな行為をしていた、として道祖王の廃位を告げます。


そして、4月に群臣に新しい皇太子は誰が良いか尋ねたときに、

「続日本紀」にやっとこさw永手が登場します❗


この時永手は権中納言中務卿、

聖武上皇の崩御直後に参議を経ずに権中納言となり、

(いつも破格の昇進が譲位や崩御で聖武天皇がいなくなるときというのが何とも不思議💦)

中務卿として、宮中の内々の事務官を統合し詔勅を扱う重要なポストにおりましたが、


右大臣藤原豊成(仲麻呂の兄)とともに


道祖王の兄で(新田部親王の子)

聖武上皇の娘、亡くなった安積親王の同母姉である不破内親王の夫、

塩焼王を推挙します。


一方、長親王(天武皇子)の子の参議、文屋智努ブンヤノチヌは、左大弁大伴古麻呂とともに、

舎人親王(天武皇子)の子、池田王を推します。


この時、大納言の仲麻呂は諮問に際して

「天の意のままに」と答えると


孝謙女帝はそれぞれの王たちに難癖をつけたあと、


池田王の弟、舎人親王の7男である

大炊王を皇太子に指名します。


この大炊王は3歳で父を失ったせいか、出仕することなく官位もありませんでした。


何をしていたかというと、仲麻呂の居候でしたw


仲麻呂の長男は真従マヨリといい、早世していましたが、妻の粟田諸姉モロネはそのまま仲麻呂の家にいました。


平安時代は妻問い婚なのですが、奈良時代は正妻は同居していて、子供も家で大きくなっていったようで、

真従は仲麻呂の正室で永手の姉の袁比良ヲヒラ(宇比良古とも)の子なので、

粟田諸姉も仲麻呂家に嫁ぎ、そのまま住んでいたのでしょう。子供もいたのかもしれませんが、


この諸姉を大炊王に仲麻呂が嫁がせたばかりか、王を養子にするような形で、その邸宅の田村第に住まわせたのです。


つまりはこの会合は仲麻呂の脚本、演出になるもので、

道祖王の行状なんてどうでもよく、

ましてや群臣の意見なんて、はなっから聞く気がなかったと言うことでしょう ゚ ゚ ( Д  )


一方永手の推しの塩焼王はこのあと数奇な運命をたどるのですが、それはおいといて…


聖武側近の豊成が、聖武の女婿である塩焼王を推挙したのはともかく


永手がどうして塩焼王を推したのかは不明ですが、のちに同じように聖武上皇の女婿白壁王を光仁天皇にしたのが永手ですから、永手の聖武上皇への思いは強いものがあったようです。


何か後ろめたいのかなあ(^^; 


そしてこれ以来、永手は仲麻呂と協調することなく、独自の道を歩き始めます。


一方北家としては、袁比良が仲麻呂の正室であるほか、同母弟の千尋チヒロも仲麻呂の長女児従コヨリ(袁比良の娘)と結婚し

そのせいか八束も仲麻呂に従うようになっていました。


この直後、仲麻呂の紫微内相(紫微令を大臣格に引き上げたもの)に任じられると同時に、永手も中納言となったものの

天下はもはや仲麻呂のものでした。


永手は政府の中だけでなく、北家の中でも孤立の道を歩み始めたのです。


苦難の多い永手ですが、このあとはまた次回に続きます。