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永手の謎に満ちた青春時代が終わりw


これからはいよいよ政治の表舞台に登場!となるわけですが


広嗣の乱に端を発した聖武天皇の「彷徨」は多大な混乱を起こしていました。


そこで永手とは直接関係ないのですが(なんせホサれていたもんですから^^;)

その間の動きをまとめておきます。

というか、こっちの方が謎なんですがw



天平12年(740)、前年より橘諸兄の別業(別荘兼経営基盤みたいなもん)のある京都府の最南部を訪れていた聖武天皇は


藤原広嗣の乱の終息が見えたと同時に始まった東国行幸の途中で、その別業の近くに恭仁(くに)京を営むことを決めます。


そして伊賀から伊勢(三重県北部)、美濃(岐阜県南部)の不破と天武天皇の足跡を追体験したのち、

近江(滋賀県)から山城(京都府南部)の地に入り、翌年正月の朝賀の儀ははやくも新都恭仁京で行われたのです。


恭仁京には大極殿をはじめとする宮殿が移築されたばかりではなく、官人の邸宅や東西の市の商人も移され、翌翌年の天平15年までには体裁が整うわけですが、


それ以前の天平14年2月から、聖武天皇は近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)に向かう東北道を整備し始め、近江南部の山間部にある信楽シガラキに離宮の建設を始めます。

これが紫香楽シガラキ離宮のちの紫香楽宮です。


そして8月以降聖武天皇はたびたびここに行幸するようになり、翌年10月には全国に置くように命じられた国分寺の総本山として紫香楽宮に大仏を建立する、いわゆる「大仏建立の詔」が出されるのです。

国分寺の総本山は首都に置かれるものなので、次は紫香楽宮に遷都することが決定的となるのです。


そして年末にはようやく大極殿の移築が終わった恭仁京の造作を停止し、紫香楽宮建設に専念せよとの命令が出されます。


年明けにも紫香楽宮遷都が行われるのかと思いますが、遷都の命令は出ず


天平16年(744)正月に今度は

恭仁京と難波京、どっちがいい?というアンケート?が行われるのです。って紫香楽宮は? ( ̄▽ ̄;)入ってないし汗


奈良時代に市人にアンケート(世論調査)をしたとは驚きですが、

その結果は百官つまり官僚は半々

市人は恭仁京残留という意見でした。


市人はまた引っ越ししないといけないので反対するのは当然なんですが、官人だってやっとこさ出来たものを捨てられない( ´-`)


ところが

この後聖武天皇は難波宮遷都を行いますから、世論は完全無視ですね

 (゜∀。)ウツルンカイ

訳が分かりませんw


たぶん百官も右往左往だと思いますが、

その難波宮遷都のあとも

聖武天皇は紫香楽宮に入り浸ります。


赤 平城京   緑 恭仁京  青 紫香楽宮




どうしてここで難波宮遷都が行われたのか不可解としか 思えないのですが(-""-;)



見えてくるヒントはないわけではありません。


じつは翌月閏1月に聖武天皇の唯一の男児安積親王が、難波宮行啓の途上で脚病を発病し、恭仁京に戻って急死するということが起きます。


享年わずか17歳、

この時恭仁京に留守官として残留していたという藤原仲麻呂が毒殺したのではというのは、以前から学会でささやかれているのですが、


翌月になって

2月24日、橘諸兄が遷都の勅を読み上げる2日前に聖武天皇は紫香楽宮に行幸し、再び紫香楽宮に入り浸ります。


安積親王はこの遷都の儀式のために難波宮に向かっていたのです。


しかも、聖武天皇が紫香楽宮に入ってしまったあとも難波宮には元正上皇が居続けています。


もしそれが瀧浪貞子さんの指摘のように「二所朝廷」のような状態であったのなら


難波宮遷都の背景には「元正ー安積」派という皇親勢力が存在していたのかもしれません。


もともと恭仁京は皇親派の橘諸兄の本拠地ですが、これが紫香楽宮に遷都となると、藤原氏と縁が深い近江に遷都となることになります。


聖武天皇は恭仁京が気に入らずに廃都を決めているので、

元正上皇は新たに皇親系の都として、すでに体裁の整った難波宮を選んだのではないでしょうか?


当時安積親王の後ろ楯には永手の弟八束ヤツカや大伴家持がおり、彼らが難波宮遷都を推したとすれば、官人が半々に意見が割れたのも理解できます。


聖武天皇としては、紫香楽宮を選択肢に入れたかったのですが、遷都の先が難波と紫香楽なら

建設費や後々の交通網の整備などで難波宮が優位なのは圧倒的なので

あえて恭仁京残留と難波宮遷都の選択肢にしたのでは?と思えます。


しかし元正上皇の意見が通り、遷都の先が難波宮ということになると、

光明皇后より元正上皇の影響力が強くなって、安倍内親王は安積親王への完全な中継ぎになってしまう。


それではなんのために光明皇后を立后させたのか、という光明皇后の側近がいてふしぎではありません。


それが藤原仲麻呂であるということでしょう。


仲麻呂は安積親王が即位することだけでなく、安積親王のまわりにいる八束や家持が次世代の主流派になることを恐れていたような気がします。


おそらく元正上皇、聖武天皇も光明皇后も安倍内親王のあとは安積親王が即位すると思っていたのでしょうし、

藤原氏の最年長の豊成や北家の八束も異存はないと思われます。


しかし、仲麻呂だけはそれを願わず、安積親王の難波宮入りを阻止したように思うのです。


もし難波宮が安積親王のための新たな都であれば、

安積親王の死と同時に難波宮は存在意義を失ってしまいます。

はたして11月には元正上皇も、ついに紫香楽宮に移ってしまうのです。


こうなれば翌年正月の紫香楽新京への遷都は、もうだれも反対できなかったと思います。いよいよ紫香楽宮が実質的に首都になるのです。


しかし、紫香楽宮では4月以降放火が続き、美濃を震源とする大地震や余震も重なり、

困憊した聖武天皇は再び太政官の官人や四大寺の僧にアンケートを行い、

全員が平城京帰還を求めたため、

5月に平城京に遷都します。


紫香楽宮の大仏は地震で崩壊した可能性もあり、紫香楽宮も捨てざるを得なかった聖武天皇は、かなり落ち込んだと思われますが、


平城京の東側が大仏建立の地と定められ

大仏の塗金に行き詰まっていたときに

天平21年(749)になって陸奥国から産金の報告があります。

ようやく大仏の完成が可能になったのは聖武天皇にとって素晴らしい慶事でした。


天皇は東大寺に赴き大仏の前に黄金を捧げ、天平感宝ついで天平勝宝への改元、恩赦なども行い、

陸奥守百済王敬福は7階特進の従三位に昇進しますが、


それについで4階特進したのが永手でした。


同時期に諸兄も施政者として初の正一位に任じられ、この時の慶祝ムードはたいへんなものでしたが、


永手はそのどさくさで昇進したような(^o^;)


ともあれ弟の八束と並び、永手は官人として再スタートを切ったわけです。


しかし、八束は5年間も聖武天皇の彷徨に振り回され、いろいろ苦労も多かったのに、いきなり兄に並ばれちょっとかわいそうな気もしますね。


でも奈良時代は母の身分などは問わず、兄弟は年長順に出世してましたから、

(永手が唯一の例外w)しかたないんですがw


その後、7月には聖武天皇は、突然出家し、安倍内親王が即位します。孝謙天皇です。


永手にとっては父方、母方の両方からの従妹であった女帝は、このあと永手を側近として重用していくことになります。


一方即位前の天平17年(445)、橘諸兄の子奈良麻呂が長屋王の遺児黄文王を擁立して、安倍内親王の廃嫡をはかるということがあり、未婚の女性の皇太子に反発があったのですが、

ようやく無事に即位した女帝には安積親王派ではないナイト的な存在が必要だということかもしれません。


このあとは聖武天皇の政治への意欲の低下から、光明皇后の発言力が増し、

光明皇后の側近である仲麻呂の力が増大します。


東大寺の大仏の開眼が天平勝宝4年(752)に行われます。これはまた新しい時代の幕開けでした。


次回は仲麻呂政権下にあっての永手と兄弟たちの動向です。


ようやく永手の活躍が見られそうです f(^_^)

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