ご訪問ありがとうございます。

 

今回は想像の枠での結論で、まあドラマとしては成り立つけれどもみたいな話ですが、

お付き合いのほどお願い申し上げます(*_ _)

 

 

さて、たいていの方は聞いたことのないw藤原永手の生涯にはいるわけですが

実はいろいろ活躍しています。

 

まず、藤原仲麻呂の乱というか恵美押勝のの乱を平定しました!(^-^)ノノ☆☆パチパチ

 

それから皇位を狙う法王道鏡を追放しました(∩´∀`)∩ヤッター

 

跡取りのない孝謙・称徳天皇の後、天智天皇系の光仁天皇を立て、仏教にどっぷりだった政治を立て直します。その次の桓武天皇が平安京へ遷都しますが、それは仏教勢力の強い平城京を嫌ってのことだというのはご存じのとおりです。

おかげで「日本霊異記」のような仏教説話には「永手は地獄に落ちた」と書かれますがwww

 

ていうか3つとも教科書に載っているような大きな事件ですよね。

 

とくに道鏡事件なんて戦前は皇位簒奪の大事件で、極悪呼ばわりされていましたが・・・

なんで永手は出てこんの?(*_*)

 

理由はあります。

 

仲麻呂の乱の時は吉備真備の戦略がすごくて、テレビでもそれを取り上げます

 おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ)おおお 

だから永手は何をしたか、「続日本紀」すら書いてないのです。

「続日本紀」はこのころ唯一の史書なので、論功行賞では永手のほうが上なんですが、記録的にもどんなことをしたかがよくわからない(ノ∀`)アチャー

 

 

道鏡の時は和気清麻呂が目立っていて、戦前の歴史教育では大ヒーロー!和気神社では神様になっておられます(-人-)

永手は政府首班なんだけど・・・

 

しかも春日大社の朱塗りの御殿を立てたのは永手です!

これです! ↓ 奈良の鹿はこちらの神鹿でございます。

 

 

頑張ってるのになあ^^;

 

で正一位になってからも政務をとった人って、日本史上橘諸兄と藤原仲麻呂と藤原永手だけ

なのに目立たないです(´;ω;`)

 

でもね、字はきれいんですよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡ 顔も声もわからないからイケメン、イケボはわかりませんがイケ字なのは確かです!

ほらほらw 道鏡は達筆ですが、仲麻呂の癖のある字に比べると整っているように思います。

 
 
   
正倉院文書に残る道鏡、仲麻呂、永手のサイン(自署) 2010年正倉院展パンフレットより
 
 
まあ、そういう人なのですが、評価とすればバランス感覚にすぐれ、あまり強引なことはしない。房前パパに似た雰囲気の人であったと思われます。

字を見た感じではそつのない人のようにも思えますね。

 

その彼は、天平時代10年以上にわたる長い間、干されていました( ノД`)

しかも、奈良時代は原則兄弟順に昇進するのに、弟八束に抜かれています。

唯一の事例だそうで、かわいそー(´-ω-`)

 

 

理由は不明です。

 

 天平 9年(737)     永手 従五位下

 天平12年(740)     八束 従五位下→従五位上

 天平15年(743)     八束 正五位上

 天平16年(744)     八束 従四位下

 天平20年(748)     八束 参議 公卿として政権に参画

 天平21年(749)     永手 従四位上

 

24歳から36歳という働き盛りの期間を逼塞して過ごしていたのです。

 

その間にひとつ下の同母弟八束はどんどん出世し、参議にまでなっちゃいます(^o^)

 

この八束という人はたいへん優秀であったようで天皇の秘書のような役をしたり、

橘諸兄や大伴家持といった人々とも親交がありました。

のちに真楯と改名しますが、この人の子孫から藤原道長などが出ます。

 

「万葉集」を編纂したとされる大伴家持の父、大伴旅人はのちに大宰帥になり、福岡の大宰府でたびたび酒宴を催し、「令和」のもとになった梅花の宴を行った人ですよ。

 

聖武天皇や橘諸兄、大伴家持らは阿倍内親王の即位後は、安積親王を皇太子にする予定でいましたから、真楯がこういった人々に次代を担うホープとして期待されていたのが分かります。

 

一方で永手のほうは、後々の行動から見る限りでは

 

バランス感覚に優れ、強引なことはしない。

天皇家に対する忠誠心が厚い。

道理を重んじる。

 

といった側面があり、のちに政府首班として天皇の後継者に選んだのは

これだけ自分をホシていた聖武天皇の血を引く他戸オサベ親王の父白壁王でした。

白壁王は天智天皇の孫ですが、聖武天皇の娘で縣犬養広刀自の生んだ井上内親王を妃にして他戸親王をもうけていたのです。

 

永手は、たとえ縣犬養広刀自の所生であっても、聖武天皇の皇女の子である他戸親王を次の天皇に・・・と考え、井上内親王を皇后にし、その夫白壁王を天皇に立てました。

 

どこかのサイトに「原則主義」と書かれていたことがありますが、道理を重んじ、私利私欲で動くタイプの人間とはなさそうです。悪く言えば頭が固いのかもしれませんが・・・

 

だから、そんなに無茶をするようにも見えないのですね。

 

時期的に広嗣の乱に同調したという見方もできますが、

 

連座で流罪になった広嗣弟の良継は742年には許され、746年には従五位下に叙位される

広嗣が更迭を要求していた吉備真備と、永手は孝謙朝以降ずっと同調している

永手の正室大野仲仟ナカチは、広嗣の乱を大将軍として制圧した大野東人の娘である

 

などと考えると、そうも言いにくい。

 

仲仟は子供がいなかったのですが、正室として後宮からずっと永手を支え続けた人です。

 

諸兄政権の中枢であった吉備真備と大野東人と関係が良好なら

諸兄に嫌われたというのも、同じように考えにくいように思います。

 

なんといっても永手は、諸兄の甥、光明皇后の甥、という血筋です。人脈から見る限り、むしろ諸兄政権に育まれているようにも思えます。

 

ところで興福寺のかつてのご本尊は有名な不空羂索観音なのですが、この像は亡くなった房前の追善に牟漏女王が子の真楯らと造立したにもかかわらず、永手がかかわっていないという謎も存在します。

ここから類推するに、牟漏女王がとても申し訳ないと思うことを永手がやらかして?

北家の中でも永手は跡取りの位置ではなくなっていたということかしらん?

 

ということは、牟漏女王の兄橘諸兄や妹の光明皇后も納得する相手ということで、聖武天皇?

 

じつはのちに孝謙女帝の皇嗣であった道祖フナド王が廃され、代わりの皇嗣を朝議で諮問された際に、

永手はなぜか流罪の前科のある道祖王の兄の塩焼シオヤキ王を推薦するのですが、

この王の正室は不破内親王といい、井上内親王の同母妹

聖武天皇と広刀自の間に生まれた皇女であったのです。

 

どうも永手には聖武天皇の血筋を守らなければという義務感のようなものがあり、

それがせっかく光明皇后を立てた四兄弟の路線を否定してしまっている。

 

それが信念なのか、聖武天皇への引け目なのかわからないのですが、

もしかすると聖武天皇に対する後ろめたさや申し訳なさがあるのかもしれません。

 

北家を支える大刀自の牟漏女王が、永手を跡取りの位置から外したのだとすれば、

永手もそれを納得して官位を辞退し、けっきょく周りも牟漏女王の目が黒いうちはそれを容認せざるを得ず、八束が当主として昇進していた。

 

実際、永手が4階級特進したのは、牟漏女王がなくなった後、陸奥国から大仏に塗る黄金が発見された慶事にかこつけてなのですが

この時は仲麻呂が台頭していたとはいえ、聖武天皇も譲位前ですし、橘諸兄もまだ健在だった。ですから、タイミング的には親戚のおじちゃん、おばちゃんが「もう、いいんじゃないか」と昇進させ、孝謙女帝の側近になるべく政界復帰させたのだと思います。

 

八束も永手と協調していきますし、永手も藤原氏の権力拡大より、律令的な政権をめざしたのも、聖武天皇への恩義を感じてというところかもしれません。

 

じゃあ、永手は何をやらかしたのか?w

 

となると、これもまた深い霧の中なのですよね。

 

永手は

東宮学士、つまり阿倍内親王の帝王学の教師であった吉備真備とともに孝謙・称徳天皇(阿倍内親王)の側近として行動することや、

 

それ以前も孝謙天皇から皇位を奪うことを目的とした「橘奈良麻呂の変」や「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」の際に活躍著しいことなどから、諸兄派や仲麻呂派というくくりよりも、親天皇派という存在でした。

復帰のタイミングも阿倍内親王への譲位直前です。

 

ここからは想像ですが

阿倍内親王と永手は父方・母方を通しての二重の従弟関係なので

幼いときは母に伴われて、祖母の橘三千代の邸宅に行くこともあったでしょう。

それは父の実家でもある不比等邸ですから、そこに阿倍内親王を連れた光明皇后が母に会いに里帰りをしたりする機会もあって、4つ違いの永手や3つ違いの八束に内親王が親近感を覚えることもあったとすれば、永手自身もこの姫君を守りたいという思いが生まれても不思議ではありません。

 

対する阿倍内親王こそ、あの僧道鏡を法王にして、皇位を譲ることを考えた人物です。

 

彼女と道鏡にはとかく隠微な(〃艸〃)噂が付きまといますが、

最近は意外にプラトニックだったんじゃないか、と見るお説も多いのです。

 

ただ、その前の仲麻呂にしろ、道鏡にしろ、彼女は好きになるとけっこういいなりになるタイプの女性のようです。プラトニックであるだけに惚れ込んでしまうのかもしれません。

 

その彼女の、最も若き日のお相手が永手であれば、

まさか永手も手は出さないとは思いますが、ちょっと仲良くなりすぎたことがあって

出仕して後宮にいた牟漏女王が驚いて、宮中から遠ざけたんじゃないかと・・・

 

まあ多分に小説的想像ですし、どうせ資料がないから誰が考えても論拠のない説しか出ない、ある意味邪馬台国より質の悪い謎ですので、ちょっと大胆に考えてみたのですが^^;

 

永手の人間関係や、行動様式から考えると

最後の道鏡追放だけはともかく、とにかくいつも女帝の側にいて、女帝の権力を脅かすことを許さない姿勢があり、

聖武天皇にホサれていたにも関わらず、めちゃくちゃ聖武天皇の血筋を大事にする(気を遣っている?)し

 

官位も辞退して、弟が当主として出てたというなら、八束の昇進の意味も説明できるのと、

諸兄派の吉備真備や大野東人との関係性から、彼がやらかしたw相手は

「雲の上のお人」だったような気がしてなりません。

 

そして、阿倍内親王が無事に即位するタイミングで、周りの人たちも彼を説得し、復帰させたように思います。

 

まあこれにはいろいろな説があり、史料の読み方も千差万別なので(恣意的?コレコレ!)

ご興味があればWikipediaの「藤原永手」を見て頂ければ面白いかと思います。

 

というわけで、今回は大胆な想像で(*ノωノ)終りましたが

永手の活躍はここからです!

 

次回は藤原仲麻呂の政権の下で何が起きていたのか、永手を中心に見ていきたいと思います。またのご訪問をお待ちしております。