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さて、今回からは藤原北家を中心に奈良時代を見て行こうというわけですが


そもそも平城京遷都から10年は不比等の時代、その後は長屋王、藤原武智麻呂(南家)、橘諸兄、藤原仲麻呂=恵美押勝(南家)、弓削道鏡と北家には政府首班は回ることなく、


奈良時代最後の光仁天皇擁立でようやく息子の永手が権力の座に就きますが、


永手の薨去後は、藤原宇合の式家が権力を奪取し長岡京、平安京遷都にいたるという展開で、北家はビミョーな位置で奈良時代~平安初期を過ごします。


そのビミョーな視点と絶妙な世渡りがじつはのちのち、藤原道長という大権力者を輩出することにつながるのかもしれません。


さて、720年9月9日に不比等が亡くなると、翌年には「本家の跡取り」武智麻呂は一躍中納言に昇進して、房前の参議の上位に立ちます。不比等の思惑通りに二人の藤原氏の議政官が実現したのです。


このとき武智麻呂は従三位になるのですが、房前もまた参議のまま3階越階して従三位になります。


さて以前に述べたように、不比等の晩年から元明天皇は不比等の思惑とは異なる道を歩んでいました。


すなわち、孫である皇太子首親王が父文武天皇の即位年齢である15歳になっているのにかかわらず、

長女で文武天皇の姉である氷高内親王に譲位してしまうのです(元正天皇)


皇后でもなく、皇太子妃でもない独身の皇女の即位は異例中の異例でした。


しかも前述したのですが、

次女吉備内親王が長屋王(高市皇子の長子)との間にもうけた王子たちを女系を通じて「皇孫」とし、皇位継承権を与えます。


そればかりではありません。


「続日本紀」で「長屋王」と記されている長屋王の邸宅跡から出た木簡には

「長屋親王」と表記されていたのです。


「日本書紀」では長屋王の父高市皇子は「高市皇子命」「後皇子尊」と記されていることから


高市皇子は皇太子であった(大友皇子と同じ太政大臣とされている)ため、

長屋親王もまた、草壁皇子の子の文武天皇、氷高内親王、吉備内親王と同列に扱われた。

ということも推測され、

親王(律令制では皇子女のみ)ならば当然皇位継承権があると考えられるので、長屋王自身が皇位継承権を与えられていたという見方もできます。


そして不比等亡き後、この長屋王が右大臣として政府を率いることになりますが、房前の越階も元明上皇の意思によるものと考えられ、


10月にはその臨終に際し、長屋王と房前が呼ばれ、

房前には祖父鎌足以来になる「内臣ウチツオミ」に任じて、元正天皇の補佐と首親王の後見を命じます。


元明上皇はなぜ、宗家の主である武智麻呂を無視して房前を「内臣」に任じたのかというと


瀧浪貞子さんによると

不比等と元明上皇、元正天皇の間には、長屋王と藤原四兄弟が協力体制で首親王を補佐するという暗黙の了解があったが


母も妃(のちの光明皇后)も藤原氏である首親王は、東宮傅(教育係)も武智麻呂で、

武智麻呂の専横を避けるために房前を皇親側に引き込もうという意図があったとされています。


たしかに皇親勢力は長屋王ひとりなので、元明上皇としては藤原氏の勢力を分断する方が安心であったのかもしれません。


また房前は詩歌を通して長屋王と親交があり、

また文武天皇の乳母で、元明上皇の信頼が厚く、不比等の後妻、光明皇后の生母でもあった橘三千代の娘(三千代の前夫美努王との娘、牟漏女王)が房前に嫁いでいたこともあって(?_?)➡ややこしいですね※参照

兄弟の中では比較的皇親側に近い位置にありました。


※注

橘三千代は最初美努王と結婚し

 葛城王(のちの橘諸兄モロエ)

 佐為王(のちの橘佐為)

 牟漏女王(房前正室) の3人を生み、


美努王と別れて不比等と結婚して

 安宿アスカベ媛(のちの光明皇后) 

を生みます。


一方房前は不比等と蘇我娼子(海女玉藻という伝承あり)の子で

牟漏女王とは全く血縁はありません。


しかし、橘三千代にとっては、なさぬ仲の四兄弟のうち、房前が最も近く、光明皇后の後見にもふさわしいと映ったでしょう。すでに二人の間には永手、八束という孫も生まれていました。


こうして房前はたいへん重い役目を負うわけですが、自分から栄達を望むわけでもなかったので、兄弟間に軋轢を生じることはなかったようです。


こうして房前は宮廷に確固たる地位を築き、724年の首親王即位の日を迎えます。(聖武天皇)

同時に安宿媛は「夫人」となりました。


そして727年、安宿媛は男児を生みます。基王という名の親王はこれまでの慣行を破って、生後32日で皇太子に立てられますが、

誕生日が来るのを待たず亡くなってしまいますΣ(゚□゚;)


しかもこの年には、橘三千代(県犬養三千代)の縁者である夫人県犬養広刀自が、第2皇子の安積親王を生んでおり、こちらの方が皇位継承者に近くなったのです。


藤原氏にとってはたいへんな危機です。そうでなくても長屋王の子供たちには皇位継承権が与えられています。


しかも今よりも女系を重視していた当時の皇位継承では、皇女の生んだ皇子が圧倒的に優位でした。


そもそも原則としては皇后の生んだ嫡子への相続が原則であれば、聖武天皇ですら傍系天皇であったのかもしれません。


これをくつがえすには、これから生まれる夫人安宿媛の子を「嫡子」にするしかない。

それが安積親王や長屋王の王子を超える唯一の手段・・・

ということで、藤原氏側は安宿媛の皇后冊立を謀ったのです。


当然、この案は皇親側の反発を招きます。また大伴氏、石川氏らも反対したでしょう。


そもそも継体天皇が北近畿から大和入りしたとき、前王権の皇女手白香皇女を皇后に立て、その子欽明天皇が嫡子とされて以来、


欽明天皇皇后は、中継ぎで尾張系の安閑・宣化天皇の血を融合するために、宣化皇女石姫皇女が立てられ、


その子敏達天皇の系統が「嫡流」として重んじられてきました。


そして最初の女帝推古天皇をはじめ、皇極斉明天皇も持統天皇も「嫡流皇后」であり、

皇后でなかった元明天皇も

嫡流天智天皇の皇女で、嫡子草壁皇子の正妃でした。


ここで藤原氏出身の皇后が立つと、継体天皇以来の血統主義の意味をなくしてしまいます。


「嫡子」文武天皇の同母姉妹の元正天皇や、吉備内親王とその子供たちは、当然それに反対したと思われます。


とくに息子文武天皇即位に尽力した不比等に、感謝の意を感じる元明天皇より、

娘の元正天皇は、実の甥である吉備内親王の子供や安積親王に期待しても不思議ではありません。


その意を受けたのが、右大臣であった長屋王でした。


こうして長屋王と藤原氏の対立が先鋭化していくと、房前は微妙な立場に立たされます。


この後房前は、亡くなるまで動静がはっきりしなくなります。

動きを見せないことが、微妙な立場の房前にできる精一杯のことだったのかもしれません。


志度寺の伝承も、藤原四子や四兄弟の中のかすかな違和感によって生まれた話ともいえますね。


次回は「長屋王の変」、そして日本最初で最大のパンデミックの時代に入ります。


ぜひ、またご訪問くださいますように(o_ _)o


楽毅論」(臨書)の最後にある光明皇后(安宿媛)の署名・・・藤原氏の三女を意味する