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立皇嗣の礼もとどこおりなく、コロナ禍で縮小されたとはいえ、これで即位関連の儀式がすべて無事に執り行われたことは喜ばしい限りです。

男系の継承を続けるかぎり、かりに古代のように女性天皇が即位されてもそのお子さまは即位できませんので、今回は秋篠宮さまと悠仁さまがおられて、ほんとうに良かったと思いますが、

いつかは悠仁さまの後のことを決めておかないと心配です。

タイミング的に、この前の古人大兄皇子即位予定を踏まえて
ちょうど中大兄皇子のお妃の話をするつもりでしたが、
あちらもじつは大変でした(*_*;

当時は皇后以外の妃もおられましたし、異母姉妹なら結婚できたのですが、嫡流という存在が重んじられていたために、傍系の天皇は中継ぎ要員になっていました。

中大兄皇子は紛れもなく嫡子でしたが、当時は深刻なお后候補不足になっていたのです。

まず、当時の皇女と姫王(二世王以下)を見てみますと

舒明皇女 
 間人皇女 (母皇極天皇➡孝徳后)
(「一代要記」による)
 布敷皇女 (母馬子娘法提郎女)
 押坂錦間皇女 (母粟田氏)
 箭田皇女 (母蝦夷娘手杯娘)
 
舒明の姪
 宝姫王 (庶兄茅渟王娘➡舒明后)
 他は不詳

舒明の甥の娘
 不詳

舒明孫娘
 倭姫王 (古人大兄娘➡天智后)

これを以前示した世代の続きとして表してみます。

⑤推古天皇554 彦人大兄皇子556

⑥竹田皇子(早世?) 厩戸皇子574
 茅渟王(早世?) 

⑦舒明天皇593 山背大兄王 
 皇極天皇594 孝徳天皇596
 
⑧古人大兄皇子611 布敷皇女
 押坂錦間皇女 
 (上宮王家全滅)

⑨中大兄皇子626(葛城皇子=天智) 
 間人皇女 大海人皇子
 箭田皇女 倭姫王628頃?
 (古人大兄家全滅)
 鏡姫王 額田姫王

⑩大友皇子648
 大田皇女(大海人皇子妃) 
 鵜野讃良皇女645(大海人皇子妃)

じつは中大兄皇子は⑨の舒明の孫世代より少し上ですが、古人大兄皇子の娘の倭姫王が正妃ですから、そちらの世代に入れています。

そこで、中大兄皇子のお后候補を探すとして・・・

これまでの皇后を確認すると

敏達 廣姫
   推古(欽明皇女)
用明 間人(欽明皇女)
崇峻  ―――
推古  ―――
彦人 小墾田、桜井玄、糠代姫
   (正妃候補、すべて敏達皇女)
厩戸 菟道貝蛸(敏達皇女)
   橘大郎女(敏達孫)

ここまでは嫡流の血を引く皇女が皇后です。
ちなみに次の舒明皇后も予定では敏達皇女の田眼皇女でした。

しかし、8歳以上年上だったせいか、田眼皇女は子供を産みませんでした。

そもそも彦人大兄皇子と厩戸皇子に蘇我系推古天皇の所生の敏達皇女がおおぜい嫁いだわりに子供がいない( ̄□ ̄;)!!

けっきょく彦人大兄皇子の嫡子である舒明天皇を儲けたのは、采女出身の母を持つ糠代姫皇女でした。

そして、
舒明天皇の嫡子を儲けたのは彦人大兄皇子と堅塩媛の血をなんとかかんとか引いた宝姫王(皇極天皇)だったのです。彼女は推古天皇の姪の子でした。

そこで舒明皇后は宝姫王こと皇極天皇(敏達曾孫、欽明曾孫)になったのです。

とりあえず蘇我系嫡流をなんとか儲けたい蝦夷や推古天皇はほっと一安心だったでしょうが、

その代わり、蘇我系嫡流の女性は
舒明の姪、舒明の甥の娘に舒明の皇子古人大兄皇子の妹と娘しかいなくなりました・・・

間もなく天皇になろうという古人大兄皇子の正妃はもちろん蘇我系皇女でないと意味ないですから、
箭田皇女が正妃となるでしょう。

そうすると中大兄皇子の正妃候補は、
⑧⑨の世代では
布敷皇女
押坂錦間皇女
倭姫王

それとなぜだか姫王がつくあの有名な美人?姉妹?の鏡姫王と額田姫王です。(系譜不明)

このふたりの謎はあまりに深いので、後でまた・・・として(^◇^;)
布敷皇女は古人大兄皇子の同母妹で中大兄皇子より10歳ぐらい年上・・・
古人大兄皇子とも結婚できませんが中大兄皇子とも合いません。

押坂錦間皇女は蘇我系ではないので次代を考えると却下🙅

名前からすれば息長系ですが、中大兄皇子に嫁いでいないことからみると、古人大兄皇子世代ではないかと思われます。

倭姫王は古人大兄皇子が即位すれば「倭皇女」ですから、これ以上ふさわしい正妃はないということで、
この婚姻は古人大兄皇子即位が前提で決められた、ということでしょう。

ところが倭姫王(のちに皇后)は子供がいませんでした。

今となってはその理由はわかりませんが、
結婚後まもなく、父も母も弟妹も皆、中大兄皇子の差し向けた軍によって亡くなってしまったのです。

倭姫王はもう夫を受け入れることがなかったのかも・・・と思います。

ところが、困った問題が起きます。

倭姫王以外に皇族の妃がいないと嫡子ができません!
えらいこっちゃ!と慌てても押坂錦間皇女もいい年になってしまい、
ようやく鏡姫王を妃に迎えたのではないでしょうか?

この人は全く系譜がわかりませんが、お墓が舒明天皇の墓域内にあり、舒明天皇の近親者だとわかります。

例えば皇極天皇の生母吉備姫王は、祖父欽明天皇の墓域にあり、
孫大田皇女の墓は皇極天皇の御陵の前にあります。

舒明天皇の押坂内陵には生母糠代姫皇女の墓もあり、鏡姫王も舒明天皇の近親者と考えるのが自然です。

とすると、蘇我系皇族の系統ではなく、舒明天皇の弟の娘か孫娘かということになりますが・・・

しかし、鏡姫王にも子は生まれず、
同母弟大海人皇子に嫁いだ同じく皇族らしい額田姫王も、十市皇女を生んでいるのに、自分の宮に連れてきたら子供はできません。

なのに地方から献上された采女にはポコポコ男子ができます(・_・;)

他に皇族のお妃がいれば、生まれたかもしれないのに、中大兄皇子はついに嫡子を儲けることはできませんでした。

しかし、朝廷内の豪族にすれば
「大海人皇子がいて良かった―^^」
ですね。まったく今といっしょです。

しかし大海人皇子もお妃がいません。せっかく十市皇女を生んだ額田姫王もお兄さんに召し上げられたし・・・^^;

そこで中大兄皇子もなんとか弟に嫡子をと、自分の皇女を大海人皇子に嫁がせます。
それが大田皇女と鵜野讃良皇女(持統天皇)だったのです。

特に皇后候補の長女大田皇女に男子ができた時は中大兄皇子も安心したでしょう。

それが「古事記」のヤマトタケルのモデルのひとり、大津皇子です。

奈良時代の漢詩集「懐風藻」には
「皇子は浄御原帝(天武)之長子也」とあります。(実際は第三子)

「日本書紀」にも大津皇子を
「天命開別天皇(天智)の為に愛まれたてまつりたまふ」といい、
中大兄皇子に愛されたとも伝えています。

中大兄皇子は、嫡子でありながら若いときの(軽王派の)洗脳?のため、
邪魔になりそうな人物をつぎつぎと粛清してきました。

けれども大海人皇子だけは粛清できずに終わってしまった・・・

これも説明のつかない謎ですが

嫡流である大海人皇子を滅ぼすことは、息長系継体天皇以来の血統主義を断つことになるという重みが
大海人皇子を生かしたのだというのが、答えになると思います。

なお、前述の額田姫王の謎も、
天智天皇と天武天皇の関係も、
簡単に説明できない部分もあります。

これらについても、また一章を立てて謎解きしたいと思います。

どうぞ次回もご訪問くださいませ(*_ _)