ご訪問ありがとうございます。

さて、前々回の「古事記」に、雄略天皇が安康天皇殺害の折に「童男」であったと語られていたのですが、
201607.27ヤマトヲグナ考 その1で紹介いたしましたとおり、吉井巌氏は「古事記」「日本書紀」において「童」の字は神性を帯びた子供にしか用いられない字であることを指摘されました。

今度は見方を変えて雄略天皇の神がかった面を探してみたいと思います。

前回、雄略天皇の皇妃が掠奪された女性が多いことを指摘いたしましたが、
4人目の妃はそういった話はなく、かわりに次のような物語が書かれています。

原典は「日本書紀」です。

次に春日和珥臣深目の娘が(妃として)おりました。童女君(ヲミナギミ)と言います。
春日大娘皇女またの名は高橋皇女を産みました。

童女君は、もともとは采女(うねめ)でした。


采女というのは天皇の侍女の中で、律令制では「郡」の次官以上の一族から容姿端麗な女性を選んで天皇に仕えさせるというものでしたが、
もっと古代では各豪族から娘を献上させたものと思われます。
おそらく4世紀以前では、征服された国がそこの巫女王を差し出して恭順を示すというような「服属儀礼」が行われ、その風習が残っていたと思われるのです。

ですから、この童女君も、和珥氏という大豪族が雄略天皇に服属したあかしに献上された女性だと考えられます。

さて、お気づきになったでしょうか?

この女性も「童女君」といい、「童」の字を含みます。「日本書紀通釈」という1899年(明治32)成立の江戸時代の国学者の日本書紀注釈の集大成(七〇巻。飯田武郷著)には「童女」も「ヲグナ」と読むべきという意見もあるほどですから、
彼女自体が巫女王の系譜上にある女性だという見方ができます。

実際この童女君には、やはり古い物語の残映が見られます。

(雄略)天皇は一夜、(童女君を)お召しになると(童女君は)身ごもりました。
そして女の子を産みました。ところが、天皇はお疑いになって、その女の子を皇女として養育なさいませんでした。
女の子が少女になって宮中を行き来するようになったころ、ある日天皇は宮中の大殿におられました。また物部目大連(メノオオムラジ)がおそばにおりました。

そこへその女の子が庭を通り過ぎていきました。目大連は振り返って群臣に
「かわいらしい女の子だなあ。むかし、
お前はお母さん似かい?清らかな庭をしずしずと歩くものはどこのお嬢さんか 
なんてセリフがありましたね^^」と言いました。
天皇は「何が言いたいのだ?」とおっしゃりました。

目大連は答えて
「わたくしがあの少女を見ますに、お姿が天皇によく似ておられます。」と言いました。
天皇も
「あれを見るものは皆言うことがお前と同じなのだ。しかしわたしは、一夜で孕ませてしまったのだ。女が子を産むことは特別に起きることだ。こういうことから、(童女君はもともと孕んでいたのではないかと)疑いを持ったのだ。」とおっしゃいました。

大連は
「それではいったい一夜に何度お抱きになったのですか?^^;」と申し上げました。
天皇は
「7回抱いたなあ。」とおっしゃいました。
大連は
「このお嬢さん(童女君)は清らかな身と心で一夜のお召しにお仕えしたのです。どうして簡単に疑いをかけて、その人の清くある身をお嫌いになるのです?わたくしは
妊娠しやすい人はパンツを触っただけで妊娠すると聞いたことがあります。
ましてや一晩中、お抱きになっておいて、みだりにお疑いにならないでください。」と申し上げました。

そこで天皇は大連に命じて、女の子を皇女として、またお母さんの童女君を妃として認められました。


さあ!でました!!「一夜孕み」ですね!
途中からお読みの方は2016.07、15の小碓命考 その4 大碓・小碓の運命 を読んでいただくといいのですが^^;
「一夜孕み」とは神や龍王になる資格者の特殊能力なのです!

まさに雄略天皇は童男であり龍王(日本書紀には「少童=わだつみ」であり、童女君もヲグナであり龍王の嫁なのです。

この2人はもともとはそういうペアであったはずなのですが、だんだん意味が失われてくると・・・
「日本書紀」のように、一晩に何回ヤッタの?みたいな話になってしまったようなのです#x x#;

さてさて「古事記」ではこの話がどうなっているのかと言いますと

ありません(´・ω・`)

その代わりに丸邇(わに)の佐都紀臣(サツキノオミ)の娘の「袁杼比売」(ヲドヒメ)という女性が出てきます。
「童女君」はヲトメギミとも読めるので、ヲドヒメとヲトメは似た名前のような気もします。
実際この話の歌謡の部分にはヲトメとあります。
どちらにしろ、和珥氏の女性です。

この人は求婚しに来た雄略天皇に道で逢い、岡の方へ逃げ込んでしまいます。

そこで雄略天皇は

媛女(をとめ)の い隠る岡を 金鉏(かなすき)も 五百箇(いほち)もがも 鉏きはぬるものを

(乙女が逃げ隠れた丘を 金鉏の500丁もあればなあ 丘を崩して見つけるのに)

と歌います。かなり乱暴な歌ですね^^;

この媛女(をとめ)=袁杼比売はなぜかくれたのでしょう?

これも似た話を覚えておられるでしょうか?

2016.09.02.22:17のヤマトタケル 系譜考2 その4 印南別嬢の物語で指摘した「否み妻」の話型です。
天皇に求婚されて拒むのは、その女性が土地の巫女王であったからです。

ヤマトタケルの母の稲日大郎女は印南(否み)別嬢でした。

同じように袁杼比売も「否み妻」なのですから、これは和珥氏から献上された巫女王として考えてよく、童女君ともキャラが一致するのです。

また、このことを踏まえて考えてみると、

倭王済のころ、息長氏は淀川水系を利用せずに伊賀経由で大和に進出していましたが、このことから、継体天皇の大和進出より前は、息長氏と和珥氏はそう親密な間柄ではなかったという事になります。
いいえ、むしろ系譜的には反正天皇の後宮に娘を入れていたと伝えられ、葛城氏と共に仁徳系の大王たちに近しい存在であったようです。

それがイチベノヲシハワケ王の暗殺や、葛城氏の滅亡を経て、雄略天皇に服属を誓わざるを得ない状況になり、娘を采女として献上することになったと思われます。

子の姫君たちに「一夜孕み」や「否み妻」の伝承が伝わるのは、彼女たちが和珥氏における斎宮のような存在であったからだと考えると、「古事記」「日本書紀」に垣間見える当時の状況にも矛盾しないのではないでしょうか?

こうして大和の敵対勢力を一掃した雄略天皇ですが、その神性はまだまだ発揮されるわけです。そのあたりは次回にお話しいたしましょう。

またのお越しをお待ちしております。