足鏡別王についてはその1で終わる予定でしたので、今回から息長氏に入っていきます。

ご訪問ありがとうございます。

さて、息長(おきなが)氏ですが、これまで何度となく息長氏は出てきました。

もちろん学校では習いませんし、私からもちゃんとした説明もないし(^▽^;)、中にはネットなどで調べてくださった方もいらっしゃるかもしれないのですが、たぶんよくわからなかったと思います^^;

実は「謎の氏族」なのです。

まず、系譜が分かりません。

古い順でいうと、第9代の開化天皇の子日子坐王の妃に「息長水依比売」が出てきますが、彼女の父は野洲の三上山の神で、息長〇〇という人物ではありませんし、この神様が息長氏の祖だとも書いてありません。

また全く別の妃山代のエナツヒメの系統から、息長宿禰王、息長日子王、息長帯比売命が出ます。けれども息長日子王は息長氏の祖ではありません。

つぎにヤマトタケルの王子に息長田別王と息長真若中比売が出ます。この人たちは応神天皇の皇子ワカヌケフタマタ王からオホホド王、そして継体天皇につながります。

このオホホド王は「古事記」によると「息長坂君」(息長、坂田君)の誤写かと思われる)の祖という事になっていますから、
いわゆる氏族としての「息長の君」(天武天皇の八色の姓では「息長真人」)の祖でもあり、
継体天皇を輩出した家の祖でもあり、
雄略天皇の母忍坂大中姫の兄でもあります。
ですから、このオホホド王家が「原息長氏」であると考えることができます。

こういう視点から唱えられているのが、岡田精司さんによる「継体天皇=息長氏出自説」です。

つまり今の天皇家は、息長氏であったという事ですから、それは大変重要な論説になります。

たしかに、息長氏には誰も権力者はいません。
皇族しか皇后になれなかった6~7世紀に、敏達天皇の皇后になったのは「息長真手王の娘、廣姫」でした。
しかし、彼女は彦人大兄皇子を産んだにもかかわらず、皇位は欽明天皇と蘇我堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれた用明天皇に移り、その後崇峻天皇(欽明・蘇我小姉君の子)、ついで敏達天皇の後妻で廣姫の死後皇后の地位にあった推古天皇(欽明・堅塩媛の子)と蘇我系の皇子女にわたってしまいます。

どう見ても蘇我氏に気おされて、せっかくの息長腹の皇子を皇位につけそこなった敗者のようです。

このような息長氏がなぜヤマトタケルや神功皇后にかかわり、
系譜考で見たように系譜を改ざんし、
皇后を2人も輩出できたのか、

それは、天皇家の直接の始祖オホホド王家が、息長氏であったと考えるほか、説明がつかないのです。

そして湖東から美濃にかけて広がっていた大碓・小碓伝承が、その後湖東から湖北にかけて勢力を伸張させた原息長氏に取り込まれて、やがて天皇家の伝承と化したことも、これによって説明できます。

第2部のはじめに「ヤマトタケル伝承から一点突破する」と申し上げましたが、
ヤマトタケルが(そして息長帯比売命=神功皇后も)
「古事記」「日本書紀」においてかくも重要な地位を得たきっかけは、この「継体天皇=息長氏出自説」をとることによってのみ説明できるのです。

古代史の研究者の間では「継体天皇=息長氏出自説」は定説ではありませんが、たいへん有名な論説です。

ところが、学校で習う内容には継体天皇のことも一行書いてあれば立派な方ですから、担当の先生が古代史マニアならともかく、一般的な常識としては全く流布していないと言えます。

多くの方にはたぶんビックリな話になってしまっただろうとお察しいたします^^;

「古事記」「日本書紀」の伝承は天皇家の出自を太陽神の子孫とし、その出自を古くからのものにするために、古くからのヤマトの王権の伝承を取り込んできました。

欠史八代の記録も、「イリ王朝」や「ワケ王朝」を一つの家系にまとめ、つなぎあげてきたのが「古事記」「日本書紀」の系譜です。

しかしその中のホムツワケ伝承、ヤマトタケル伝承、神功皇后伝承、あるいは前回書きました淀川水系の反乱伝承等、近江や敦賀、丹波地方など北近畿の伝承があまりに多いのは継体天皇の大和入り抜きでは説明できません。

そしてホムツワケ伝承の系譜、神功皇后の系譜を含む「日子坐王系譜」や、
オホホド王家やそれに連なる継体天皇、息長真人氏の祖先系譜の意味を持つ「ヤマトタケルの「一妻系譜」に、
最初の系譜考で論じたような息長氏の手による改ざんの跡があるということも、この北近畿の伝承群が息長氏の手によって天皇家の伝承に加えられているという可能性を示すものと言えます。

今回は最初のわりに驚きの内容になってしまったので、ここでいったん休憩いたします^^;

次からはもうすこし具体的に、息長氏の姿を明らかにしたいと思います。

ぜひまたご訪問いただけますようお願いいたします。