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前回からヤマトタケル論に「継体天皇考」という一章を建てたのですが、
これからヤマトタケルの「一妻系譜」と「上宮記逸文」の「一云」であげられている継体天皇の系譜とのかかわりを明らかにし、継体天皇とヤマトタケルの関係を考察しようと思います。

さて、まず継体天皇の出自を明記した、唯一残っている「上宮記逸文」の「一云」の系譜について検証します。

じつはこの系譜は、13世紀後半(鎌倉時代)に学者の家系であった卜部兼方が、
「日本書紀」の講義のために、自家に伝わる家説に当時存在した記録を引用して、
「日本書紀」の原文解釈の集大成として作った「釈日本紀」に引用されているものです。

そこにはおそらく聖徳太子のことが書かれた「上宮記」という史料が引用されています。この「上宮記」は現在、散逸して伝わっていないのですが、記紀には伝わっていない聖徳太子の王子・王女の名前などもここからわかります。けれども伝わっているのは「釈日本紀」に引用された部分だけなので、「上宮記逸文」と言われます。

その「上宮記」が、おそらく聖徳太子の血統などを説明するときに、他の書物などから継体天皇の系図を引用しました。
それが「上宮記」の中で、「一に云く(あるにいわく)」と注記された部分です。ですから、この系図はまた引きされて現在に伝わったのです。もとが書物か金石文かはわかりませんが、「日本書紀」の「系図一巻」は現在伝わっていませんし、「古事記」には詳しい系図を載せていないので、天皇家の来歴を知る唯一の手がかりなのです。



 一云 凡牟都和希王娶 俣那加都比古女子 名弟比賣麻和加 生兒若野毛二俣王 娶母母思已麻和加中比賣 生兒大郎子 一名意富富等王 妹踐坂大中比彌王 弟田宮中比彌 弟布遲波良已等布斯郎女四人也
 
此意富富等王 娶中斯知命 生兒乎非王 娶牟義都國造 名伊自牟良君女子 名久留比賣命 生兒汗斯王 娶伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希 兒伊波智和希 兒伊波己里和氣 兒麻和加介 兒阿加波智君 兒乎波智君 娶余奴臣祖 名阿那爾比彌 生兒都奴牟斯君 妹布利比彌命也


青い部分は「古事記」の倭建命の「一妻系譜」と重なる部分で最初の「系譜考」で検証しました。

赤い部分が「古事記」「日本書紀」にはない部分ですが、
倭建命から継体天皇の父ヒコウシ王に到る系譜と
フタジノイリビメの同母兄イワツクワケノミコから継体天皇の母フリヒメへと至る系譜の代数が一致しているので、「古事記」の編者はこの系譜を承知していたと思われます。


上宮記



この系譜が推古朝以前のものであるという事は、黛弘道氏が用字などを詳細に研究されて、ほぼ定説となっており、それをもとに継体天皇の出自はやはり天皇家の遠い分家だとする考え方が主流となっています。

ただ、「古事記」「日本書紀」で「応神天皇=ホムダワケ」となっているワカヌケフタマタ王の父は、「上宮記」では「凡牟都和希王」と書かれていて
吉井巌氏は、これは「ホムツワケ王」と読むべきだと指摘されました。

「ホムツワケ王」といえば、あの沙穂彦・沙穂姫の物語の赤ん坊で、白鳥を見てしゃべった皇子です。そして、系譜的には「日子坐王系譜」に属します。

これはいったいどういうことなのか?

ヤマトタケルの孫という事になっている「応神天皇」の子孫ではないのでしょうか?
それなら、なぜフタジノイリビメは作られたのでしょうか?

そして今の天皇家の直接の御先祖である
継体天皇はどこの、誰ということでしょう?

武烈天皇には明らかに易姓革命の名残があります。前代の天皇家とは関わりがあったなら、易姓革命が採用されるのも不可解です。

次回からこの謎を詳しく検証してまいります。