「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
(中略)
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
(マタイによる福音書 20:1-7)
夕方になって労働者たちは「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に」(同 20:8)ひとしく一デナリオン賃金を受け取りますが、夜明けから働いていた労働者は不平をいいます。働くことの基準を対価(金銭)に置いたとき、たとえ夜明けから「一日につき一デナリオンの約束」であっても、私たちの感情はそのように動くのでしょう。
けれどももしも私たちが病で休職を余儀なくされた後であったら? 終日の労働が可能となった状況(回復)に、心から感謝するようにも思えます。
また、夜明けに仕事を得た人は、その日の糧を得ることができるのを知って一日を過ごします。夕方に仕事を得た人は、日中を思い煩いながら過ごしたかもしれません。
「だれも雇ってくれない」立場の人々も「その日の糧を得ることができた!」と共に喜ぶ選択も私たちには与えられているのでしょう。
「天の国は次のようにたとえられる」---これこそがこのたとえ話の要に思えます。この世に存在しうる場所(天の国)として。
そして「最後に来た者から始めて」が主のなさり方、そしてお力なのでしょう。人生の最晩年に回心した(神様のほうを向いて生きる)人も、長く信仰に生きる人に劣らぬ感謝と喜びを得ることができる、十字架上で救われた罪びとのように…
「みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように」(主の祈り)
今日一日、たったひとつでも愛の選択ができますように…