だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイによる福音6: 34)
まるで「明日」に人格、意志があるかのような「明日のことは明日自らが思い悩む」を不思議に思います。
「とき(時間)」も御手のうちにあるからでしょうか?
明日は、
神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
(ルカによる福音書 12: 20)
と不確かなものです。
では、なぜ「明日」なのでしょう?
やがて、「明日自らが思い悩む」は、自らの思いに囚われ、思い悩む私たちを、「明日はどのように導こうか」と主自らが思い悩んでくださるのではないかと思えるようになりました、主ご自身が私たちのために祈ってくださる「主の祈り」同様…
今に生きよ―― 多くのことが道徳になっていくのでしょう。
けれども道徳となり得ないみことば、恩寵としか呼びようのない事象。
いつの間にか傍にきて、私が気づくまでじっと見つめている小犬の、強く、優しく、信頼、希望、愛― 全てに満ちた、神様の見護りを現しているかのような漆黒の瞳。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
(マタイによる福音書 28: 20)
私たちは大切なことがあるから思い悩む…
奥底で安心して思い悩みたいと願います、永遠のいのちへと向かって。
主よ、どうか私たちがその一瞬、
「たったひとりわかってくれる人がいるだけで良い」
といわれる人であれますように、
あなたの愛ゆえに
あなたへの愛ゆえに…