聖書勉強会で一人の老婦人だけが制限時間を大幅に超えて思うことを述べられるのに反発の声が上がっていましたが、お世話係の方は「耳が不自由で可哀そうだから」と許容するようおっしゃいました。
不平等だとの声が大きくなったとき、ある人は司祭に仲介を頼みましたが、「憐れみを」とのお答えに、「耳が不自由だから可哀そうとは決まっていません。私たちを憐れまれるのは神様だけです」と食ってかかったそうです。
司祭は「イエスの目でみるからね」と仰り、義憤に駆られていた人は以降、イエス様の目で見ることを心の中心に据え、みことばを広めようと奮闘なさっている司祭と故国のご家族の健康としあわせを毎晩感謝のうちに祈るそうです。
義憤に駆られているだけでは怒りと変わらないでしょう。
「イエスの目でみるからね」――神様が司祭を通して語られたことば、「みことば」がその人を救ったのです。
みことばは人となられた---
神として「仕えられるためではなく仕えるために」、
「人の子」として来てくださったイエス様のご降誕を祝います。
(マタイによる福音書20:28)
メリークリスマス!