いのちの尊厳2(弱さの中の強さ) | 生きましょう!

生きましょう!

死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。(マタイ8:22、ルカ9:60)
支えあい、助け合い、生きてこの世を旅することができますように・・・

   私たちは皆いつかこの世を去ります。年老いたら延命治療なしに自然に逝きたい、と願う方も多いでしょう。私もそのひとりでした。

   社会人講座へ通ったり孫たちと遊んだり――、老後のやっと訪れた穏やかな日々を楽しみ始めて暫く、突然半身と言語の自由を失った父はそれから十数年という時間の中で、残されていた身体機能も徐々に失っていきました。伏して長く生きるより、三年でも良いから元気に過ごしたいだろうと何度思ったことでしょう。
 

   父の気持ちはわかりません。けれども枕頭で暑くないか寒くないかと父の様子を「見る」日々を重ねるうちに、一息、一息が神の息吹だというのはこれではないかしらと思うようになりました。

   赤ちゃんは生活のすべてを人の手に委ね、過去に何かをしたからでも未来に何かをするからではなく、ただそこに存在するだけで「見る」者に尊い思いを抱かせます。命の尊厳は人生のどこにあっても同じでしょう。けれどもそれを知るのは何と難しいことでしょう。

   父が誤嚥や褥瘡にも苦しんだ中で、胃瘻や気管切開は止そうと家族の意見は自ずと一致しました。ある夜、再び誤嚥を起こした折、処置くださった当直の医師に「経口はもう無理です」と胃瘻を薦められ、私は同意しました。家族の合意、私自身が選択するであろう、そして父も望むかもしれない胃瘻の拒否は、助かる命を前にありえませんでした。

   身体や言葉はおろか自殺の自由、延命治療の選択の自由さえない中で生きた父は、ただそこに寝ているだけで、私に与えられた生を生き抜きたいとの願いを抱かせてくれるようになりました。そして私自身の延命治療拒否の思いより家族の思いを優先して貰えればよいのだと、子どもたちの判断に委ねると言えるようになりました。

   いのちを自らのものということの放棄、あるいはそのような思いからの解放というのでしょうか。

   私たちは苦悶や苦痛の最中、死を願う瞬間が何度もあるかもしれません。そのような弱さを抱えるからこそ私たちは互いを求めるのでしょう。
   助け、助けられ、支え合って「生きること」、いのちの尊厳を守り抜きたいと願います。


「わたしは弱いときにこそ強いからです。」

(コリントの信徒への手紙二 12:10)