2008年にうつ病になって、まだあの当時は働くことが難しかった。

今思えば、どうでもいいようなことだったけど

そのときの私にとっては、小児科で働くことこそが

最善であり唯一の道だとしか思えなかったんだよね。

でもそう思うだけあって、私はその小児科病棟で生き返ったんだ。

慣れている仕事だったから、自分がスムーズに動けるという実感を得た。

スムーズに業務ができることで、職場の人たちの信頼も得たと思う。

だから私は、小児科に助けられたと思っていて

これだけは一生忘れてはならないと肝に銘じている。

3.11を経験したのも、その小児科だった。

揺れ始めて、私は自分の受け持ちの子どもたちを毛布で覆ってから

一番小さな子に覆い被さるようにして抱きしめて地震をやり過ごした。

長かった。

そのうち、医師がたくさん集まってきて、まずは落ち着こう!

子どもはベッドに寝かせて、揺れがおさまるまで看護師さんもなるべく

しゃがんで動かないでと号令がかかった。

遠くで、誰かが人工呼吸器だけ誰かお願い!と叫んだ。

あとのことはよく覚えていない。

テレビ画面を見て、かすかに悲鳴があがったことは覚えてる。

これが本当にこの日本で起きていることなのか。

 

あれから11年が過ぎたという。

小児科からは離れたけど、今も私は看護師として働き続けている。

あのまま、もしも小児科を追い続けていたらどうなっていたかな。

あの病院で、もうすこし頑張っていたらどうなっていたかな。

いろいろ思うけど、でもそのときの自分の決断を今でも誇りに思っている。

今の道を選んだから、私は今の職場に出会って

多くの人と楽しく働くことができた。

大学院に進学するという、当時の私からは考えられないような道も通った。

そして、今、また人生の岐路に立っている。

 

私は、看護管理の中の「看護教育」というものをもっと学びたいし

もっと良くしたいと考えている。

今までは、病院という組織とその中の看護部という伏魔殿みたいな中で

それなりにしがらみがあったり、収入面やその他、立場的なものに

縛られていた部分もあり、また、甘えもあったのだ。

 

人間、自分の思う通りにならないと腹も立つし、それを貫きたくなるものだが

組織の中では、それを我慢しなければならないことのほうが多い。

私は、今の病院では心から楽しく働いてきた。

体力的なきつさや、その他思い通りにいかないことも乗り越えてきた。

立場が欲しいと思ったこともあった。

決定権が欲しいと思ったこともある。

そうじゃないと若い人にきちんと指示することができないこともあった。

でも、そのときにはその権利を得ることができなかった。

今やっと、その権利をわずかに得て、様々な人からの信頼も得たと思うけど

一番肝心な看護部長からの信頼を得られていないと感じている。

 

魚は頭から腐るという。

看護部長が代替わりして1年、たった1年で私の好きな病院ではなくなった。

悲しいけれど、それもひとつの時代が終わったということなのだろう。

もう、私はこの病院でやれることはひとつも、一欠片もないとわかった。

 

いっそ清々しいとさえ思える。

やり残したと思うことや、悔いが残る辞め方にならずに済むことが嬉しいとさえ感じる。

ありがとう、看護部長。

私は、あなたのおかげですっきりと辞める決意ができます。

 

今までは、辞めてからも何らかの関係性をつなげておこうという欲もあった。

でも、もうきっぱりとこの組織から離れると決められそうだ。

 

ほんとうに私はよくがんばった。

 

無理せず、50代の自分らしい生き方を模索しながら

この混沌とした時代を毎日暮らしていきたいと心から穏やかに思う。

 

3.11、私は忘れない。