『無言館はなぜつくられたか』
野見山暁治・窪島誠一郎 著。
この本にであってよかったです。
文化的な暮らしとは縁遠い私はもちろん絵というものも全然わからない。
美術展に行っても絵を見ず下についている値段をみて感心する始末。小学生だった長男に「お母さん、絵を見ないや」と注意されたものだ。そんなだから野見山暁治画伯102歳で死すというニュースにもちっとも反応しなかった。ところが
「100人が反対しても、一人のヒットラーがでれば戦争ははじまる」
6月27日 コラム 春秋。→野見山暁治さんは先の大戦で満州のソ連国境に配属された。雪、樹、霧。画家の目には色のない世界と映った。ある日、凍土にカーキ色を見つける。夢中で掘って現れたのはミカンの皮。色のある所に帰りたい、そう思い涙したと綴(つづ)った(「人はどこまでいけるか」)。出征前に一緒に学んだ東京美術学校(現東京芸大)の友人らをおおぜい失った。遺族に届いた遺骨箱に入っていたのは白い
貝殻だったり、木片だったり…。後に 戦没画学生の遺作をあつめる旅に出たのも…
野見山さんが亡くなった。100歳をこえてなお 創作をつづけた熱量とともに、戦
争を冷徹にみつめた 視点が印象にのこる。
この記事を読んだときロシアプーチンを思いおこし「100人反対しても一人のヒットラー・・」に衝撃を受けそして納得した。
いろいろこの人を知らねばと調べたらこの人は「無言館」を窪島誠一郎さんとともに創立させた人というのを知った。
そし『無言館はなぜつくられたのか』に巡り合った。
野見山さんは画学生のとき出征、入営前の祝いの宴のことが書いてある。
近所の人や親の知人、陸軍将校など祝いにきてくれたが「国のために闘え」とか「敵を打ち落とせ」など勇ましい励ましのあと父親から挨拶しろと言われ仕方なく下座に座った。
言葉に詰まった。その場の空気に嫌気がさしていた。早く言えと父親がせかす。その時突然ドイツの詩人の言葉が口をついて出てしまった。
〔我はドイツに生れたる世界の一市民なり〕・・・「わたしは日本にうまれた世界の一市民です」そういったんだ。それまでかんがえてもいなかった、じぶんでもわからない。「それなのにどうして他民族とたたかわねばならないのか。そんなころで死にたくない」と、むちゅうになって僕はいいました。
もうその場はてんやわんや。
この人は声を大にして「戦争反対」などと言う人ではない、というのに・・。
そんな画家が戦死せず復員して画家になった。
そして戦没した画学生たちの絵の収集をはじめることになった。それはとても重い重い仕事だった・・。が、窪島誠一郎氏と出会ったことは運であろうか。必然であろうか。
本当に自分がやらなければならないのか、やっていいのか・・・。その問いを背負いながら・・。
もう一度無言館行きたい。
ちょっと長過ぎちゃいました。