私も一般家庭に育った人間でありますので、あれやれ、これやれ、こうしろ、などなど、家族、学校、友人、知り合い、職場、さまざまな人間関係に揉まれ、自己肯定感なんて、まぁ、一般的なくらいしか持っていなかったわけです。

 

昔は自己肯定感を上げるには、自分を好きにならなきゃいけない!って思って、頑張っておりました。

自分を褒めたり、許したりして、それなりに受け入れられるようになりました。

 

最近はそれが進化して、別に無理に好きにならなくても、自分はただ自分でしかないじゃん。

って思うように変わってきたわけです。

 

例えるなら、ツッコミが自動で入るビデオカメラみたいなものです。

これが自分が認識している世界そのものなわけです。

 

自分というカメラで目の前のものを撮影すると、自動で編集されて、自動でテロップやツッコミが入るわけです。

このカメラは、人それぞれオリジナルなもので、私のカメラではこういうテロップが自動で入るけど、他人のカメラには、自分の見ている動画とは違うテロップがのって撮影されているわけです。

トレンディドラマが好きな人のカメラで撮影すると、おしゃれで感動的な字幕が載っているかもしれないですし、喜劇が好きな人のカメラで撮影すると、芸術的に面白いツッコミが所狭しと入っているかもしれません。

その人の好みの映像に、きっと編集されているのだと思います。

面白いな〜と思いつつも、違っているのが当たり前にも思えてきたわけです。

 

昔ね、夕食に鶏肉のグラタンを作ったら、家族にエビが入っていない!何で!ってゴネられたことがあったんですが、今思い返すと、きっとその時の家族の目から撮影された映像には、グラタンはエビが美味しいよね。ってテロップが追加されていたんだと思います。

 

人間関係が上手くいかないな〜って思っている人は、この映像の編集方法が、人によって違っているって認識を持ててない人なんだと思うのです。

 

違っているのが当たり前で、自己認識と自己表現が上手に言葉で伝えることが出来ていないのかな?って思ったわけです。

自分の見ている世界と、他人の見ている世界は違います。

全て違うってわけではなくて、自分というフィルターを通して見ているから、感じ方、捉え方が人それぞれ違っているのが普通なわけです。

 

私にも、その時の家族にも、目に映った映像は、ただのグラタンなわけです。

ただそれだけなんだと思うわけです。ただ、ゴネた子は、映像の編集が違っているという事をフラットな言葉で伝えるという事が出来なかったのだと思います。

この時の家族も、きっと、「私ね、エビグラタンも好きだよ。」って会話で伝えてくれたら、私も「めんどくせー」とは思わなかったんだろうな〜って思ったりして。

 

 

 

私は私でしかないわけです。

私が見たもの、聞いたもの、全部私というフィルターを通して認識しているわけじゃないですか。見るという事も、自分の脳を通して見ているわけですし。

 

ってことはですね、私が見て聞いて、私が感じた事。ってのが全てなわけです。

私は、私が見て聞いてどう思ったかが全てであって、それを他人と100%共有することなんて不可能なわけです。

そう思ったら、今まで、親とか、先生とか、友達とか、メディアとか、これはこう言うものだから、こうしなさいとか、こう言う感情表現をしなさいとか、そう言う学びを得ていたわけですが、それ、全部、無理じゃね?って思ったわけです。

 

言葉というもので、共感したふりは出来る。

で?その先は?ってなったら、空虚なわけです。

だって自分が思っていることではないのですから。

 

光を見て、明るいと感じるとします。でも、近しい人に、暗いと言いなさいって言われたとします。その時は偽って、暗いね〜とか共感したとしても。で?って感じになっちゃうのです。

だって自分はそう思ってないことであるから。

言われたから言っただけで、そこから何か、楽しいアイデアや会話は生まれない気がするのです。だって空虚だから。

 

そんな事を思った今日この頃。

結局世界は、自分が見て、聞いて、どう感じたか。ってことしかない。

私という認識は私しかわからないことであるから、他人様も、植物達も、他のものも同じ事。

それぞれの世界はそれぞれしか認識出来ない。

 

私が宇宙があると認識しているとする。それは私が思い描く宇宙であって、きっと、他の方が思い浮かぶ宇宙とは違っているとします。

それでも、私の思い描く宇宙が私の宇宙である。しかないのです。

だって私というフィルターを通してじゃないと、私が認識している世界は見ることが出来ないから。

 

私の世界は、私が認識している世界である。

ってことは、大きく行っちゃうと、私がそうだと思ったら、その世界が私の世界である。

唯我独尊、天上天下。

昔、それを聞いた時、大きく出てるな。って思ったのですが、今思うと、認識という意識を持つもの全てに、それぞれの唯我独尊、天上天下があるんじゃないかな。って思ったりして。

世界は私、私は世界。

皆んなそれぞれ、独立の世界を持っている。

 

そんな認識が出来たら、伝達の方法も変わるのかも。