快言(?~?)

 室町時代の竹生島妙覚院の住職。延徳二年(一四九〇)付けの、快弁より快言への何らかの譲状が、江戸時代には伝来していたようですが、現在は確認できません。墓所は菅浦にある末寺宝光坊。入寂年月日は不明。

 

快実(?~?) 

室町時代の竹生島妙覚院の住職。竹生島に伝わる種々の書類目録である「書記類品々名目」(年未詳)に、延徳二年(一四九〇)九月五日付けの「妙覚院快実寄進状」との記載があります。 千歳坊と妙覚院は、快実の三十三回忌の為に版経の法華経一五部を竹生島に寄進しています〔「霊宝類諸色大概目録」(年未詳)〕入寂年月日は不明。墓所は菅浦にある末寺宝光坊。

 

快雄(?~一五八三?)― 羽柴秀吉による寺領縮小に対応し、島内改革を断行した和尚―

 戦国時代の竹生島妙覚院の僧侶。千宝坊快雄和尚。号は、円如院。

 永禄元年(一五五八)一〇月一二日、永禄元年に竹生島全山焼失した際には、竹生島の僧らは、浅井久政が島に預けていた貴重品を守りました。このことについて久政は火災発生日の翌日に礼状を発します。宛先が千宝房ですので、快雄宛てに出したことが分かります。

 永禄七年(一五六四)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第六座の阿闇梨として名がみえます。

 永禄八年(一五六五)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第五座の阿闇梨として名がみえます。

 永禄九年(一五六六)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第五座の阿闇梨として名がみえます。

 戦国大名浅井久政の側室で、長政の生母の浅井寿松が、永禄一〇年(一五六七)に蓮華会の先頭を受けた際、永禄九年(一五六六)一一月九日に竹生島に奉納する為に造像した木造弁才天坐像(現存)の背面墨書銘に四人衆として、高禅坊和尚栄翁(第一座)・(実相院)行充(第二座)・千宝坊快雄(第三座)・(竹林坊)円運(第四座)の名がみえます。快雄はこの時、竹生島衆徒の第三座です。

 永禄一〇年(一五六七)八月八日、竹生島は、小嶋社造営の大工作料として浅井郡益田南郷の内字ササカミの内の一反(現、長浜市下八木町の内)を安部神太夫に扶助しました。この時、高禅坊栄翁・実相院行充・千宝坊快雄・竹林坊円運の四人衆が連署しています。快雄は第三座

 永禄一〇年(一五六七)九月六日付けで、竹生島岩金山大神宮寺の阿闇梨円意(第八座)・阿闇梨行整(第一七座)と、四人衆である権大僧都栄翁(第一座)・権大僧都行充(第二座)・権大僧都快雄(第三座)・権大僧都円運(第四座)は、安部神太夫宗政を小島遷宮の大工として補任しました。

 永禄一一年(一五六八)三月三日の「島繋ぎの神事」の竹生島衆徒一八人中の第三座の権律師として名がみえます。

 元亀三年(一五七二)九月二四日付けで、竹生島への日御供米の取り扱いについて定めた「当寺諸日御供米掟目之事」を、日御供米衆である行充和尚と快雄(第二座)が連署し定めました。元亀三年(一五七二)は織田信長勢の浅井攻めが厳しさを極めた時期です。当然のことながら竹生島が領有する北近江の田畑においても大きな被害が出ていたでしょう。この掟目の中では、百姓からの損免要求への対応等にも触れており、信長勢力の侵攻は、竹生島領にも及び、少なからず寺院経営にも影響を及ぼしたものと思われます。

 天正三年(一五七五)から天正一一年(一五八三)まで一﨟を務めます。

 天正三年(一五七五)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に、竹生島衆徒一八人中の第一座の和尚として名がみえます。

 天正四年(一五七六)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に、竹生島衆徒一八人中の第一座の和尚として名がみえます。

 天正六年(一五七八)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に、竹生島衆徒一八人中の第一座の和尚として名がみえます。

 天正七年(一五七九)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定に、竹生島衆徒一八人中の第一座の和尚として名がみえます。

 天正一二年(一五八四)三月三日の「島繋ぎの神事」の差定にはその名は無いので、没年を天正一一年(一五八三)としておきます。

 墓所は菅浦にある末寺宝光坊。

 

羽柴秀吉による寺領縮小に対応し、トップとして島内改革を断行(【15】と類似)

 天正三年(1575)五月一八日付けで、四人衆である、快雄(第一座)・円運(第二座)・行意・(第三座)・快済(第四座)は、竹生島寺領の掟を定めました。北近江の支配者となった羽柴秀吉が寺領を大幅に縮小したことへの対応策であると考えられます。秀吉が北近江はを支配する前には、竹生島領が三千石程あったと言います(少し誇張されていると思いますが)。それが秀吉により三百石に減らされたのです。竹生島の経営を維持するには、大胆にスリムで効率的な経営システムに変更する必要性に迫られたのです。この掟の内容を整理すると以下の通りとなります。

 ①目録を作成したので、それに随って田地を支配すること

 この時作成された目録は今に伝わっていませんが、「永禄十一年納帳」や天正四年一一月吉日の「三百石目録」に類するものでしょう。天正四年の「三百石目録」は、この時定められた天正三年版目録の修正版であると思われます。。三百石の各院坊への配分や島内での使い道を定めた内容です。火災や収公により島の経営を抜本的に変更せざるを得ない時に、こうした改革が実施されました。

 ②「無足之衆(むそくのしゅう)」(領地が与えられてない僧たち)には、一人に付き一石づつ田地を以て、「東之地主衆」から合力すること。

 例えば、寺領五斗一升九合の荘厳坊には一石が合力されています。しかし、東之地主衆とは何坊をさすのでしょうか?竹生島の院坊を東西に分けるとするならば、本殿・観音堂を中心にそれより東と西に分かれているのでしょうか。当時の僧侶たちには容易に理解できたのでしょう。

 ③「無足之衆」には、一人に付き一石づつ年貢米を以て、「西路下地衆」から助成するよう求めている。

 東西の衆でなぜ合力・助成の方法が違うのかは不明です。「西路」とは、現在の竹生島港から石段を上げって行く道を指したものと思われます。

 ④但し、不作などにより損免を行なった場合は、適宜調整することが求められている。

 ⑤坊領を持っていて、明屋敷(院坊の建物が無い状態)になっている場合は、当年の秋の年貢収納を行い、坊舎を建て、島の役務に出仕すること。

 限られた土地の中で、力のある大きな院坊が、今は屋敷地でけになっている各院坊を兼帯しているという事実を問題視しているのでしょう。院坊が増えないと島の宗教的発展も限られてしまいます。また、坊領の年貢収納がおざなりになってしまっているケースもあったかもしれません。わずかな年貢の為に大きな労力を使うことになってしまうからです。随って弱小院坊であっても、独立し、建物を構えてた宗教施設として機能するよう促した施策であると考えられます。それを、大きな院坊が支えるのが「合力」・「助成」のシステムなのでしょう。

 この流れにあったのが、慶長一〇年(一六〇五)に大規模寺院の常行院(東之地主衆)が同院の持分であった東南坊屋敷跡をは金蔵坊行慶に貸与した案件なのでしょう。金蔵坊行慶は、東南坊屋敷跡に家(院坊)を建てること、その院坊が退転することが無いように努力すること、住持が替わっても常行院の指示に従うことを約束し、その後三代に渡り金蔵院は安定経営に成功しています。

 また、無住となっていた妙覚院に、快玄が入寺した案件も同じ流れにあるのでしょう。寛永一〇年(一六三三)七月一日、常行院静誉の肝煎りで、金竹坊頼寿と花王坊静繁は、妙覚院一宇と諸道具を快玄に付与しました。快玄は「この上は、弟子を取って、御内輪の衆(竹生島の衆徒ら)とよく相談して妙覚院を守り立てて行きたい」旨の一札を入れています。

 

 ⑥「坊持衆」はすべて衆列することを求めている。

 弱小院坊であっても、坊持の僧侶となったからには、竹生島の衆徒としての責任と義務を負うことと定めました。

 ⑦万一、この置目に背いたならはば、坊領の年貢を竹生島惣中で支配することとする。

 この掟の内容を担保するために、違反者には坊領の没収という重罰を科します。

 ⑧今後、竹生島として出費があった場合は、各院坊の徳分に応じて負担すること。

 竹生島領が大幅に縮小された中で、歳出の負担についても厳格な対応とった改革になっています。各院坊の収益に応じた負担を求めています。

 ⑨これら竹生島領にていては、島外に売却してはならない。

 これからは、浅井氏という大旦那を失い、各院坊はかなり厳しい経営を強いられることになります。だからと言って寺領を切り売りしてしまったのでは、竹生島の衰退は目に見えています。寺領三百石時代を生き抜くための、島内改革を断行しました。