かつて現在の宝物殿あたりに建っていた妙覚院

弁才天堂(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていた竹生島宝厳寺の本尊の弁才天像は、明治の廃仏毀釈の際に弁才天堂を離れ、妙覚院に仮安置されました。その後、昭和17年に現在の弁才天堂が寺域に建立され、それより今に至るまで弁才天像は弁才天堂に安置されています。

 

快全(?~?)

 室町時代の竹生島妙覚院の住職。応永二四年(一四一七)四月一三日の竹生島衆徒起請文に名が挙がります。上位者から、栄重・玄清・行賢・因善・良快・行慶・行因・静重・玄算・玄重・快全・頼恵・行遍・行存・宗清。清円・静算・因俊・行重・栄清・快乗・栄遍・行真・行舜・善重・行光・玄照・因快・頼乗・栄快・三位・上野・武蔵・侍従・和泉・式部。竹生島衆徒三六人中の第一一座。

 康正三年(一四五七)八月二一日、妙覚院快秀 は等持寺領シヤラ田半折三反の内二反を、妙覚院快全の後生善処の為に竹生島の「法華講田」として寄進していますので、康正三年(一四五七)には亡くなっています。入寂年月日等は不明。墓所は菅浦にある末寺宝光坊。

 

享徳四年の竹生島大火災後に、妙覚院を再建

快秀(?~?)

 室町時代の竹生島妙覚院の住職。妙覚院中興の第一世。享徳四年(一四五五)正月二二日、常楽坊玄照の支配の常楽坊から出火。竹生島の堂塔坊舎は悉く炎上しました。玄照は罪に問われ逐電。その敷地は公領(一山領)となり、翌康正二年(一四五六)八月一三日に、執当である妙覚院快秀・一乗坊栄快と四人衆の権少僧都多聞院清全(第一座)・権律師仏乗坊善重(第二座)・権律師阿弥陀坊行栄(第三座)・権律師蓮蔵坊円遍(第四座)が連署して、常楽坊の敷地を、法輪坊の筑前公に銭八貫文で売り渡しました。この火災後に妙覚院を復興させたので、中興第一世と位置づけされたのでしょう。

 妙覚院快秀は、康正三年(一四五七)八月二一日、等持寺領シヤラ田半折三反の内二反を妙覚院快全の後生善処の為に竹生島の「法華講田」として寄進しました。また、同日付けで、等持寺領半折三反の内の残りの一反を妙覚院快全の後生善処・仏果実菩提の為に竹生島の「日御供田」として寄進しました。なお以前の寄進状等(権利書の類)は、享徳四年(一四五五)正月二二日の火災で焼失しているとのこと。

 また、文正二年(一四六七)正月一一日、妙覚院快秀は、金竹坊行永から金竹坊を買い取ります。応仁二年(一四六八)六月三日に金竹坊一宇を弟子である讃岐公に譲り渡しました。

 墓所は菅浦にある末寺宝光坊。入寂年月日は不明。

 

快弁(?~?)

 室町時代の竹生島妙覚院の住職。快弁より快言への延徳二年(一四九〇)付けの譲状がかつて存在していたといいます。

 「永禄十一年納帳」に記載の「法華講田」の内に、妙覚院が取次いだ快弁寄進の神領(現、長浜市早崎町)字四ノ坪の一反があります。

 忌日不詳。墓所は菅浦にある末寺宝光坊。