【伊達家文書 四・五段目の陣立】
                百丁
  百拾丁            鉄炮 佐々若狭
   鉄炮  奥山出羽守        長尾主膳    
                百拾丁    
                 鉄炮 飯淵尾張
  百拾丁               礒田作右衛門
   鉄砲  森田杢右衛門       
       白石主膳     百拾丁
                 鉄炮 草刈蔵人
  七十丁               秋保長門 
   鉄炮  石母田大膳
                百拾丁
                 鉄炮 大山助兵衛
                    熊谷伯耆

 

 

【本資料 四・五段目の陣立】

     鉄炮    〔欠損〕若狭
 奥山出羽       長尾主殿   
     百廿丁    飯渕尾張
        
      鉄炮百拾丁 磯田作右衛門
 森田杢右衛門     草刈蔵人
 
 白石主殿       秋保長門    
     鉄炮百拾丁
            大山助兵衛

 石母田大膳     熊谷伯耆
    鉄炮百拾丁

 

  四段目、家臣名は同じです。伊達家本は、奥山隊は鉄炮百十挺。森田・白石隊も鉄炮百十挺。石母田隊は鉄炮七十挺です。しかし本資料には、なぜか鉄炮数の記載がありません。

 なぜ、本資料には鉄炮数の記載がないのでしょうか?この陣立書の所持者にはあまり関係が無かったってことなのでしょうか?それとも兎に角コンパクトにおさめたかったのでしょうか?わかりません。

 五段目は、伊達家本の佐々・長尾隊が鉄炮百挺。飯渕・磯田隊が鉄炮百十挺。草苅・秋保隊は鉄炮百十挺。大山・熊谷隊も鉄炮百十挺です。それに対して本資料は、(佐々)・長尾・飯渕の三隊で鉄炮百二十挺。礒田・草苅隊が鉄炮百十挺。秋保・大山隊が鉄炮百十挺。熊谷隊が鉄炮百十挺になっています。武将のぶら下がり方が違ったり、秋保と大山が離れて書かれていたり、どうも鉄炮数と武将名の配置具合があいまいになっているようです。書き手(写し手)がそのへんを理解せずに書いてるようにも思います。