伊達家文書には、大坂夏の陣における陣立書が二種類残されています。一つは端裏書に『小田邊権右衛門上」と記されたもの、もう一つは「片倉小一郎上ル」と書かれたものです。いずれも同じ内容です。一度、伊達家から家臣たちへ渡した陣立書が、再び伊達家に返却されたものでしょうか?普通は、陣立書は伊達家から家臣に「この陣形でいくぞ!」と指令したものなので、家臣の手に残ります。しかしこれらの陣立書は、小田邊・片倉に一旦渡されたものが、何らかの理由で後日に伊達家に渡されたものなのでしょうか?「上ル」とはそういう意味なのかもしれませんね。それでは、伊達家文書の陣立書と本資料の内容を比較してみましょう。
まず一段目。中央上部に書かれた片倉小一郎隊に相違があります。伊達家本の方が家臣名が多いのです。
【伊達家文書 片倉隊の陣立】
浦倉二兵衛
鑓百丁 須田弥平 一 紺野蔵人主
馬上六十騎 | 小片(平)丹波
片倉小十郎 鉄炮三百挺 ―――― | 佐野甚内
弓百張 佐藤大学 | 関谷新左衛門
鑓百挺 歩小姓衆 | 山村六右衛門尉
鑓百挺 大河内弥内 一 佐藤二郎右衛門
【本資料 片倉隊の陣立】
馬上六拾騎
鉄砲三百挺
片倉小十郎
弓百挺
鑓百挺
以上のように、本資料では記されていない兵力が、伊達家本には記載されています。まず。鑓百丁の浦倉二兵衛と須田弥平の隊。それに鉄炮三百挺の内訳として、紺野蔵人主隊ほか五名の名前。弓百張は佐藤大学隊、鑓百挺は歩小姓衆。その外側に本資料では記載されていない鑓百挺が備えられており、そこには大河内弥内の名があります。つまり、伊達家本の方がより詳しく、また兵力も大きいのです。これは何故でしょう。ここでは結論を急がずトータルで考えますが、一応、伊達本の出所が片倉小一郎である点(小田邊方から出たものは置いといて)を考慮しますと、自隊の陣立をより詳しく記したものと理解しておきます。
なお、伊達政宗大坂夏の陣陣立書は、もう一点あります。新田義親の鎧櫃から出て来たという「摂州大坂陣之御備」があります。今これを詳しくは載せませんが、これにも伊達家本のような片倉隊の詳細は記されていません。やはり片倉家が用いた陣立書特有の記載なのでしょう。