関勘兵衛重頼(?~一六四四)
 元は南部家の家臣でしたが、いつの頃からか旗本衆として伊達家家臣となりました。

【伊達政宗大坂夏の陣陣立書】関勘兵衛部分

 本資料では、通称の「勘兵衛」として登場し、後藤肥後の家臣の荒井左京盛次と共に片倉隊の左に、鉄炮百挺を装備して参戦しています。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣の後、伊達政宗の子、伊達秀宗が伊予宇和島藩の初代藩主となった折には、荒井盛次と共に護衛としてついたと言います。大坂夏の陣の際には、伊達政宗が片倉小十郎付きにしたため、片倉の指揮下に入りました。慶長二十年(一六一五)五月六日に負傷しながらも、首一つを自身が取っています。さらに勘兵衛の家臣の橋本惣七・沢田満右衛門・早坂蔵人・遠藤次郎右衛門がそれぞれ首一つずつを取りました、したがって勘兵衛勢は五つの首を取ったことになります。