片倉小十郎重綱(のち重長と改名・一五八五~一六五九)

 父は「伊達の三傑」と評される片倉小十郎景綱。伊達氏の数々の合戦に参戦し、時には伊達氏の危機を救っています。関ケ原の戦いの後は、白石城一万三千石の城主になりましたが、大坂の陣では病に伏せていたため、嫡子の重綱が旗本衆として伊達政宗勢として参戦しました。 したがって、本資料の先鋒中央の「片倉小十郎」は、重綱です。大坂夏の陣、慶長二十年(一六一五)五月五日、伊達政宗勢は道明寺に着陣。六日には豊臣秀頼の大坂城籠城勢が茶臼山に登り、未明に出て政宗の陣へ鉄炮で攻撃しました。これに対して伊達隊は、先備の片倉小十郎重綱が戦闘開始しました。片倉重綱は自ら太刀を持ち戦います。その結果、伊達隊を含む徳川勢は、敵将後藤基次を討ち取りました。その際、父景綱から「一軍を率いる将が敵と刀を交えることなど、あるまじき行為」との旨のお叱りを受けました。しかし重綱の武勇は皆の知るところになり「鬼の小十郎」とおそれられました。

 ここでワンエピソード。大坂落城の一週間後。片倉重綱は、伊達氏家臣の針生民部に次のように伝えています。「7日に大坂城も落城して、その日も殿様(伊達政宗)のお手柄は日本一ですよ!」結構「おべんちゃら言い」なんですね「鬼の小十郎」さん。

 

      馬上六拾騎

      鉄砲三百挺

片倉小十郎

      弓百挺

      鑓百挺