栄雄(?~一七七七)

 江戸時代の僧侶。竹生島一乗院の末寺である浅井郡菅浦村(現、長浜市西浅井町菅浦)の興徳院の住職。仮名は、問津。

 本寺の一乗院が無住であったので、月定院円阿の弟子となる。円阿入寂の後、月定院の後住になることが決まっていた円明がまだ幼年であった為、栄雄が苦労し、月定院と円明を盛り立てた「月定院有功ノ僧」である、という話が伝わっています。ただしこの「月定院有功ノ僧」の逸話は、学雄にも同じ話があります。おそらく後代の僧侶が、「学」の字と「栄」の字を混同したのでしょう。栄雄は菅浦興徳坊の住職なので、学雄の逸話と理解するのが妥当です。

 安永六年(一七七七)二月二八日入寂。

菅浦の集落

衛門二郎(?~?)

 安土桃山時代から江戸時代初期の菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)の人。慶長四年(一五九九)六月一五日、蓮華会先頭を受けた時の頭文がかつて存在しましたが、現在はありません。ただし、明治六年(一八七三)にその文章は写されています。しかし、その内容の信憑性は低いです。その写しによると、この時の四人衆は、寺主(第一座)が快忠、上座(第二座)が円清、修理別当(第三座)が快清、権別当(第四座)が快海で、小寺(第五座)が静息(恩の間違いでしょう)、都維那(第六座)が行広です。江戸時代後期から近代初頭に、「竹生島宝厳寺文書」にその名が見える浅野市右衛門は同家(※浅野市右衛門の項を参照)です。

浅野市右衛門(?~?)

菅浦村の衛門二郎と同家。天明五年(一七八五)正月十日、「竹生島免状之事」を菅浦村(現、長浜市西浅井町菅浦)の市右衛門が竹生島から受けています。この時の竹生島四人衆は、寺主(第一座)が登翁、上座(第二座)が円明、修理別当(第三座)が文定、権別当(第四座)が法印観阿です。

 さらに数代後の、明治三一年(一八九八)二月一一日には、「竹生島免状」を元浅井郡伊香郡永原村大字菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)の浅野市右衛門が受けとっています。免状を発したのは、宝厳寺住職の峰覚以。蓮華会の頭役は、浅井郡の者が受ける決まりですので、明治三一年には伊香郡になっていました大字菅浦を「元浅井郡」とわざわざ断っているのはおもしろい。前年の明治三〇年(一八九七)四月一日に西浅井郡(現在の長浜市西浅井町域)が廃され、伊香郡に統合されていたので、蓮華会受頭の秩序に違乱がないように配慮したのでしょう。