永禅(?~?) 

 建永年間(一二〇六~一二〇七)の頃の竹生島の僧侶。「良全勧進文」にある地蔵菩薩一躰を奉安する堂を建立したといいます。

竹生島港から宝厳寺を見上げる

栄範(一七七四~?)

 江戸時代の僧侶。竹生島一乗院の末寺の浅井郡菅浦村の興徳坊の住職。仮名は聞了。近江国出生。天明六年(一七八六)一〇月にはすでに興徳坊住職を務めています。寛政元年(一七八九)一二月、「寺院出家人別御改帳」では一六歳 。入寂年月日は不明。

 

栄繁(?~?)

 寛文四年(一六六四)正月八日の「下山者也、仍而証文如件(奥のみ残存)」に名前が挙がるります。その時の下山者は、上位者から、静繁(花王院)・広照(吉祥院)・頼真(金竹坊)・尊海(梅本坊)・円喜(月定院)・行喜(院坊不明)・快秀(院坊不明)・快誉(妙覚院)・行意(院坊不明)・栄寿(一乗院)・吉誉(院坊不明)・静快(院坊不明)・栄繁(院坊不明)・祐盛(実相院)。何らかの理由で、竹生島の僧侶たちが一旦下山(竹生島から出て行くこと)したのでしょう。その理由は本文が欠けているため不明ですが、この時期、島内の東南坊屋敷地の帰属を巡り対立が生じていたので、東南坊問題がその理由であるのかもしれません。

 

栄遍(?~?)

 室町時代の竹生島の僧侶。応永二四年(一四一七)四月一三日の竹生島衆徒起請文に名があります。栄重・玄清・行賢・因善・良快・行慶・行因・静重・玄算・玄重・快全・頼恵・行遍・行存・宗清・清円・静算・因俊・行重・栄清・快乗・栄遍・行真・行舜・善重・行光・玄照・因快・頼乗・栄快・三位・上野・武蔵・侍従・和泉・式部。この時の竹生島衆徒の定員は不明ですが、一応、竹生島衆徒三六人中の第二二座と理解しておきます。この起請文は、竹生島衆徒三六名が公事において作成したものです。応永二四年(一四一七)一〇月日付けの勧進沙門行遍による阿弥陀堂修理の際の勧進記が、かつて存在していましたので、阿弥陀堂建設に伴う何らかの公事に関連した起請文とも考えられます。