◆私、西国巡礼に行きます!!

 竹生島は西国三十三所第三十番札所です。なので、「竹生島の歴史をひも解く」から少し離れて、江戸時代を生きた、ある女性の西国巡礼の旅に思いを馳せてみたいと思います。彼女が残した「丹後国田辺加佐郡上安久村とよ西国三十三所巡礼納経帳」(以下、納経帳)を通して。

 この納経帳は、丹後田辺藩領であった丹後国加佐郡上安久(かみあぐ)村(現、京都府舞鶴市上安久。西舞鶴の市街地)の「とよ」という女性が、天保十五年(一八四四)に西国三十三所観音霊場と、伊勢国の千福寺および山城国の清涼寺を巡礼した際に使用したものです。

 

【表紙】

天保十五甲辰年

西国三拾三所

  丹後田辺加佐郡

三月   上安久村

       登よ

 

 「とよ」が単身で旅に出たのか、同行の巡礼者が居たのかは、この納経帳からは判断できません。一般に江戸時代には、庶民が自由な旅行に出ることは難しい時代でした。ただし、近世の若狭国のことが記されています『稚狭考』によりますと、若狭国では女性の旅行が禁止されていた一方、西国三十三所巡礼は禁止外であったといいます。さらに、「とよ」が生きた江戸時代後期にもなると、霊場巡礼や伊勢参りになどに限り、手形の発行も比較的容易であったといいます。それでも、女性の旅は誰もが叶えられるものではなく、私はそれを実行した「とよ」という人物について「もっと知りたい」という欲求に駆られました。

 伊勢参りや西国三十三所を巡礼する「とよ」なる人物は、経済的・時間的余力がある領民であることは想像に難くありません。彼女は居住地近隣の松尾寺を巡礼のスタートの地とし、天保十五年(一八四四)三月中旬に旅立っています。旧暦の三月中旬は、世間では田植えの準備等で大忙しの農繁期です。「とよ」がその時期に巡礼を始めたという事実は、彼女とその家族が農業従事者では無いとを示唆しています。

 その後「とよ」は、北近江、美濃、伊勢、紀伊、和泉、河内、大和、山城、再び近江、再び山城、丹波、播磨を巡り、最後に丹後の成相寺に参詣し結願しています。巡礼中には、女性であるがゆえに、当時女人禁制でした山城の醍醐寺と、播磨の円教寺では「女人堂」に参詣しています。女性が行なうの巡礼に伴うハンディキャップの一面でもあります。

 今、私が「とよ」に迫れる材料は、私の手元にある「とよ」が所持していた納経帳のみですので、「とよ」が辿った巡礼の旅を納経帳に従って再現してみることにします。