栄順(?~?)

 室町時代の竹生島の僧侶と思われます。栄順が寄進した浅井郡朝日郷字上御房田(現、長浜市湖北町??字上御房田)の一反の年貢米を、梅本坊が取り次いだと「永禄十一年納帳」にあります。梅本坊の僧侶か。入寂年月日不詳。

栄純(?~?)

 室町時代の竹生島梅本坊の住職。法印権大僧都。入寂年月日不詳。

栄淳(?~一六四五)

 江戸時代の竹生島梅本坊の住職。

 元和九年(一六二三)三月三日の「島繋ぎの神事」の着定に、竹生島全衆徒一六人中の第六座の阿闇梨として名が見えます。

 正保二年(一六四五)八月一六日に入寂。

栄順(?~?)

 江戸時代、竹生島に属していた坊人。

 御師(おし)のことを竹生島では坊人と呼んでいました。御師は、寺社に属し、寺社の依頼により全国の信徒を廻り代祈祷を行ない、御札を配り勧進活動を行なう祈祷師のことです。

紙本版画竹生島出現之図

坊人はこのような図を携えて勧進活動をしていたのでしょうか。

 

 元禄六年(一六九三)三月二一日、栄順は竹生島の坊人となり、丹波半国地方での御札配りと勧進活動を行なうことなりました。これにより毎年七月に竹生島に登山して礼銭を上納し、免状の切り替えを行なうことになります。

 この際、竹生島側は久雪(坊)と覚玄(坊)が、栄順に対して御朱印(免状)を発行しました。新規に坊人となった栄順は、坊人の中将と、請人(保証人)の長雲と下磯尾村(甲賀郡)の円式の坊人仲間が連署して請状を久雪・覚玄に提出しました。「坊人」については、【1】を参照してください。