栄教(?~?)
江戸時代~明治時代の竹生島月定院の住職であり、菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)真蔵坊(院)の住職。
菅浦真蔵院が所蔵する「絹本著色弁財天像」の外題に
弁才天/当寺第八世現住栄教修□ 真蔵坊什
とあり(『西浅井町文化財調査報告書 西浅井町の仏教美術』二〇〇三年三月二五日 西浅井町教育委員会発行)、栄教が真蔵院第八世であることが分かります。
また、安政五年(一八五八)の菅浦金比羅宮の祈祷札に導師は栄教です(『菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書 』平成26年3月、 滋賀県長浜市教育委員会、長浜市文化財保護センター編集)。
竹生島(左側)と葛篭尾崎(右側)
菅浦は、葛篭尾崎の西側(左側)の入り江に位置します。
さらに、安政七年(一八六〇)三月十六日の菅浦の惣社神門再興棟札に
修念者法印権大僧都栄教
とあります。(『菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書 』平成26年3月、 滋賀県長浜市教育委員会、長浜市文化財保護センター編集)、幕末期に栄教が真蔵院の住職として菅浦で活動していたことが伺えます。
慶応三年(一八六七)三月には、月定院栄教が惣神事を務めていますので、栄教は月定院と真蔵院を兼住していたものと思われます。なお、竹生島内で神事と言えば「島繋ぎの神事」のことです。
明治五年(一八七二)正月、竹生島惣代の常行院は、大津県膳所出張所に対して、竹生島末寺の菅浦真蔵坊の住職として、真蔵坊栄教の弟子の月定院教誉を任じたい旨を願い出ています。
入寂年月日は不明。