なかなか住職になれなかった苦労人

専覚(一七八八~一八三一)

 江戸時代の竹生島一乗院の住職。一乗院中興第十二世。吉祥院専純和尚の弟子として竹生島に横入(おうにゅう)。元は覚本といいましたが、専純和尚に従ったので専覚と名乗るようになりました。俗姓は、下総国角廉郡(葛飾郡)小平村(現、千葉県野田市の一部か?)の渡辺久右衛門の子息。同郡東金ノ井(現、千葉県野田市東金野井)の清泰寺法印覚意に随従して、寛政一一年(一七九九)一二歳で得度。この年の六月二九日に覚意法印が入寂。一六歳の時に本山(長谷寺)の交衆(きょうしゅう。学侶として教学を学ぶ)として、上京北野十二坊真言院(現、京都市北区紫野十二坊町の真言院)に寓居します。真言院の住職と専覚とが同国出身であった縁によります。

 翌文化元年(一八〇四)初冬には、吉祥院専純和尚の弟子となり、竹生島に入衆します。しかし師専純は翌文化二年(一八〇五)正月八日に入寂。吉祥院の後住は専覚とはならず、江戸浄性院住職の随泉法印が竹生島に入り吉祥院の後住となりました。随泉は、先師観阿の弟子。さらに文化二年(一八〇五)一一月二七日、随泉が入寂。随泉は、弟子である随阿を吉祥院の住職としてほしいと遺言を残します。随阿は、随泉が浄性院時代に取り立てた弟子。これによって、専覚は詮方無く文化四年(一八〇七)に一乗院文宜和尚の弟子となり、惣持寺(現、長浜市宮司町の寺院)の真岳和上に随従します。翌文化五年(一八〇八)にはようやく一乗院の住職となりました。その後、文政九年(一八二六)には、衆評(竹生島衆徒の評議)により、妙覚院へ移り寺務にあたることになったので、当時一四歳の文専(専覚の弟子)が一乗院の留守居となります。天保二年(一八三一)、専覚は、下総国時代の師、清泰寺覚意の三十三回忌に当たるのを期に、生国(下総国)下向を思い立ち、四月に発駕し生国に下向しましたが、そこで発病。五月二八日に入寂しました。四四歳でした。清泰寺で清泰寺住職の戒山法印が葬式を執り行い丁重に葬られました。このとき専覚の弟子である文専は一九歳。天保二年(一八三一)七月に一乗院の住職となります。

 専覚の墓所は菅浦にある妙覚院の末寺宝光坊。竹生島では、島内で葬式を営むこと、墓を持つこと、は禁止されています。

竹生島

 

文専(一八一二~一八六一)

 江戸時代の竹生島一乗院・妙覚院の住職。一乗院に住職したのち、妙覚院へ転住。仮名は覚定(覚浄とも)。浅井郡山本村(現、長浜市湖北町山本)の西慶寺に生まれる。一乗院専覚の弟子。峰覚以の師。惣持寺の良知が伝法灌頂の師。同寺の守真が伝法印可の師。文政十一年(一八二八)三月三日に惣神事(頭人)を勤めます。南天保一五年(一八四四)七月、「般若心経秘鍵」第一章打集を草稿。弘化三年(一八四六)一一月八日、新放生寺(舎那院・現、長浜市宮前町の寺院)において、戒牒(僧尼が戒を受けたことを公式に証明する文書。)を授与されました。同年一二月、一﨟の吉祥院が悲法我侭であったので、本寺の総持寺が解職し逼塞を命じたのに伴い、新一﨟の選出を求められ際、一﨟に昇格しました。嘉永二年(一八四九)から文久元年(一八六一)まで一﨟(和尚)。安政 四年(一八五七)九月一九日、伝灯大阿闇梨法印快貞より印信を授与されます。 安政七年(一八六〇)三月三日に惣神事(頭人)を勤めました。文久元年(一八六一)正月二二日、四九歳で入寂。