一乗院の院室を再建する

栄寿(=栄仙)(?~一六九七)

 江戸時代の竹生島一乗院の住職。栄仙ともいう。一乗院中興第六世法印栄仙和尚。先師栄喜の弟子。一乗院の院室を再建しました。

 寛文四年(一六六四)正月八日の「下山者也、仍而証文如件(奥のみ残存)」に名前が挙がります。その時の下山者は、上位者から、静繁(花王院)・広照(吉祥院)・頼真(金竹坊)・尊海(梅本坊)・円喜(月定院)・行喜(院坊不明)・快秀(院坊不明)・快誉(妙覚院)・行意(院坊不明)・栄寿(一乗院)・吉誉(院坊不明)・静快(院坊不明)・栄繁(院坊不明)・祐盛(実相院)です。何らかの理由で、竹生島の僧侶たちが一旦下山(竹生島から出て行くこと)したのでしょう。その理由はこの古文書の本文が書けているため不明ですが、この時期、島内の東南坊屋敷地の帰属を巡り対立が生じていたので、東南坊問題(【19】参照)がその理由であるのかもしれません。

 東南坊跡屋敷の使用権をめぐる常行院と金蔵坊の争いの際には、栄寿は若年の金蔵坊の後見役となります。その後、元禄五年(一六九二)に、幕府が寺院の建物と住職世代のお改(調査)を実施した際に対応。元禄九年(一六九六)一〇月の早崎寺領本帳写を記しました。元禄九年(一六九六)に竹生島衆徒の最上座である一﨟に昇進するも、翌元禄一〇年(一六九七)五月五日に入寂。

 

四人衆として「入衆定條目」を定めた

栄春(二代目・一六七〇~一七三一)

 江戸時代の竹生島一乗院の住職。栄貞ともいう。一乗院中興第七世。

 享保八年(一七二三)三月三日の「島繋ぎ神事」の差定に竹生島衆徒一四人中の第五座の阿闇梨として名が見えます。

 享保一二年(一七二七)一一月一四日に定められた「入衆定條目」によると、その時の四人衆は、竹生島衆徒の最上座である一﨟が月定院円祐、二﨟が一乗院栄春、三﨟が梅本坊照存、四﨟が妙覚院庭凰。この「入衆定条目」は、新しく竹生島衆徒となる僧侶の取り扱いについて定めたものです。それまで慣習として実施してきた規定を明文化しました。その内容は、

  一、当山奉公人並びに門前(早崎村)出生の者は寺僧になることはできない。

  一、当山児育(稚児の育成)は、古法の如く、入寺遅速次第烈座する事。

  一、横入の僧、年﨟の相違六歳以上一座二座まで超越あるべき事。

 

の三條目と附則が定められています。

 

 享保一六年(一七三一)八月五日に入寂。六一歳。


 

師、実盛の縁で一乗院の住職になる

即門(?~一七三三)

江戸時代の愛染寺の御朱印。愛染寺はすでに廃寺になっていますので今となっては貴重です。

 竹生島一乗院の住職。一乗院中興第八世。京都の稲荷山愛染寺の老隠の住職であった実盛の弟子。実盛は、早崎村(現、長浜市早崎町)の嘉左衛門(吉川姓)の次男。同家は、多くの僧侶を輩出しています。しかし愛染寺において故障が発生したので、弟子の即門と共に郷里である湖北に戻り、即門を一乗院の住職に据え、自身は一乗院に閑居しました。故障とは、享保の頃、愛染寺と社家(伏見稲荷の社家)との間の争論のことを指します。一乗院の住職は「栄」の字を通字とすることが多いのですが、愛染寺から横入した即門は、「栄」の字がつきません。享保一八年(一七三三)九月一七日に入寂。享保二〇年(一七三五)一月一四日、贈法印を免許されます。