専融(又は専祐・一六九二~一七七八)は、江戸時代の竹生島常行院の住職。常行院中興第九世。前名は観興(又は歓興)。号は玄照院(又は玄上院)。先師宥誉法印の弟子。常行院実泉の師匠。

 近江国坂田郡大原荘井口村(現、米原市井之口)の池田庄司太郎の五男。神照寺善行院(現、長浜市新庄寺町・日出山神照寺)において剃髪。戒師は神照寺の無量寿院天雄和尚。宝永四年(一七〇七)、一六歳の時に常行院宥誉の弟子として竹生島に横入しました。翌年、一七歳の時に竹生島常行院の住職となり、以後三十五年間住職を務めることになります。

 元文二年(一七三七)から寛保元年(一七四一)までは、竹生島僧侶のトップ一﨟を務めました。

大雨で常行院が被災。そして大発見!!
 元文三年(一七三八)専融和尚が四七歳の時の五月下旬。連日大雨で、六月一日の夜半頃に御殿(現、都久須麻神社本殿)の裏山が崩れ、大木数十本が湖中に抜け落ち、同時に、常行院の仏殿(弁才天別殿)・庫裏・客殿と石垣の過半も打ち潰れ、湖中へ落下するという前代未聞の難儀に見舞われます。このことは別の史料からも伺い知ることができます。竹生島の宮大工を務めていた冨田村(現、長浜市富田町)の西嶋但馬家に伝わる「年代記」は、この時のことを「竹生嶋常行院山くずれ海へつき出す」と表現しています。

 この大雨の時、思いがけない発見をすることになったので、そのことも記しておきます。常行院裏山崩れの際に椎の大木も湖中に落ちます。その椎の木の根の深さは1丈余りあり、人夫数十人で掘り起こしたところ、底に大壷が埋まっており、壷の中から金銅の薬師如来坐像・歓喜天像が各々一軀と、経筒一口が出土しました。しかも、経筒には銘があり「保元三年(一一五八)八月七日」とあります。これらは専融が住職を務める常行院に安置しましたが、薬師如来坐像だけは一乗院に安置したと言います。なお、これら出土遺物については、所在確認一次調査を二〇一七年八月に私が実施し、同年一一月には仏教彫刻を専門とする研究者と関係住職と共に二次調査を実施しました。その結果、仏像二軀については、現在別の寺院に安置されていることを確認しました(一般非公開)が、残念ながら経筒の行方は不明となっています。


写真1(青線囲みのあたりが崩れたか?)



写真2 西嶋但馬家文書(年代記)の記事

専融の行動は横暴だ!一山から非難を受ける

 話は元に戻りまして、その後専融は、元文五年(一七四〇)に江戸での開帳を実現させるなど、復興のために種々苦労し、石垣を積み、仏殿・庫裏共に仮再建を果たします。

 しかしながら、専融の行動は竹生島衆徒のまとめ役である一﨟という立場にありながら、独断的で横暴である、と竹生島一山から批判を受け、寛保二年(一七四二)正月七日付けで、一山に対して覚書一札を入れる羽目になります。その内容は以下の通りで、専融の罪過を列挙し、以後の更生を誓わせられたのです。


 

  一 弁才天社境内地の闕所と石垣・道等を、衆評に背き勝手に普請したこと。

  一 竹生島の秘所である薬師・聖天の両尊像を相談もなしに自らの住家に安置したこと。

  一 神木をはじめ山内の諸木をみだりに伐採したこと。

  一 日頃から百姓等に対して自坊の開帳時に用金を申し付けたり、またそれを返済したかったりし、権勢を振るい無茶をしたこと。

  一 惣道に勝手に門を設置し、往来の人たちを煩わせたこと。

  一 酉年(寛保元年)の蓮華会の時には、一山に相談無く頭人から米二〇俵を借り受けたこと。

  一 酉年(寛保元年)の大阪での開帳塔婆(開帳を告知する立札のことか?)に「権大僧都法印専融」と記したこと。

  一 その塔婆を、使用後に切割って、自防の普請に利用したこと。

  一 開帳に使用した所道具等を一山に無断で自らが引き取ったこと。

  一 開帳中の御供米を一山に相談なく、自分勝手に取り計らったこと。

  一 金銀米銭の支払い受け取りは「年預」の職分であるのに、近年は「一﨟」が取り計っていること。

  一 大阪開帳を行いたい旨を江戸表にお願いするにあたって、まず京都御役所に届け出をしなければならないと、謹慎中に大胆にも自坊の普請を行ったこと。

  一 小嶋拝殿に葺いている葭を、一山に断り無く自坊の普請に使ったこと。


 

  これら寺法に背き咎められていることについては、逐一異論はなく。今後は慎むこととする。


 

という一札です。

 専融はこの覚書をしたためたタイミングで常行院の住職を退き、弟子に譲り渡すと同時に、一﨟を辞しました。

 すなわち、寛保二年(一七四二)正月に弟子である実泉に住職を譲り、大阪に閑居して玄照院と号したのです。大阪での行動は不明ですが、その後再び坂田郡に戻り、神照寺西福院(長浜市新庄寺町・日出山神照寺)を居所として再建します。
 宝暦一三年(一七六三)三月には、常行院の住職である実泉が三七歳で入寂したので、一時専融が常行院に帰寺しましたが、そのうち、浅井郡早崎村(現、長浜市早崎町)の清左近の三男を取り立てて、常行院の後住としました。その名は、円鏡房専海。しかし、竹生島一山が「早崎村出生の者は後住としない」という島の山法・定規に背く、として不承知であったので、専海は常行院の住職には着けず、空坊であった神照寺西福院の地に同院を再建し住職となりました。この時の再建資金は常行院から支出したと言います。

そして、常行院の後住には、石道寺(現、長浜市木之本町石道の石道寺)普門坊の文英房専純が横入することになりました。神照寺正池院(あるいは正知院)の住職である亮照が、専純と知音(親友)であったので取りなしたのです。明和三年(一七六六)専純は、亮照と同道で竹生島に登臨し横入しました。専純二二歳の時です。

 良くも悪くも竹生島僧侶として力を発揮した専融は、安永七年(一七七八)七月二八日、八七歳で入寂しました。