事件の当事者笠原源七郎行永は、戦国時代の近江国浅井郡新井(現、長浜市新居町とその付近)の土豪。その昔、足利尊氏が竹生島に日御供米として寄進した、新井郷内の一町六反大の田地の切米七石五斗と、古来よりその振舞料として納められている一俵の米について、笠原行永が押領したと、永禄九年(一五六六)に問題になりました。

 永禄九年(一五六六)一〇月一五日付けで、竹生島が浅井長政の家臣である遠藤喜右衛門に宛てた案文によると、

 ①笠原方が切米七石五斗について寺納されないので、毎年納める様申し入れてきたが、うやむやにされてきたので、仕方が無いのでその内催促もしなくなった。

 ②毎年、笠原氏自らが竹生島に渡り宿所である常行院において振舞料として一俵を持参していたが、ここ五・六年はこれも無くなってしまい。笠原方に度々お願いするも承知してもらえない。

 ③四十一・二年前の大永年中に、笠原方が山隠れした時には、竹生島が小作料の徴収について直接行なおうとしたら、笠原方より不都合である旨を諭されて、前々の如く笠原方にお預けした。

 ④従前から小作料の納米が違う(※笠原行永は七石五斗の内に振舞料が含まれているという解釈をしているので、その分切米が少なくなっている)。このことは妥当ではないので、笠原方に取り次いでもらい、よく検査の上、島に納めるよう、(遠藤喜右衛門から)仰せ調えてほしい。

 ⑤幸いにも中島直親様が御逗留になっているので、中島様が了承していただいて支障が無いのならば、お考えを聞きたく思う。

と竹生島は主張しています。また、同日付けで、中島直親にも同趣旨の書状を出しています。こちらの書状では、先代の笠原氏が病気になって以降、(三・四〇年以来)七石五斗が途絶えたこと、振舞料は七石五斗の内に含まれる旨の主張が笠原方にあること、を明らかにしています。

 これに対して、笠原行永は、一一月九日付けで常行院御同宿中宛に書状を出し、天女日御供田の耕作者に指示を出し、藁七八束と縄一三〇把を早崎村(現、長浜市早崎町・竹生島の神領)の政所、または竹生島の使者に渡す旨を述べています。これはお詫びの印なのでしょうか。

 一方、遠藤喜右衛門直経は、一一月一六日付けの書状を竹生島に送ります。御供米については、島に納めるよう話し合いをつけたので、笠原九郎右衛門(笠原一統であろうが不詳)に任せておいてほしい旨を伝えた上で、去年の分は竹生島瑠璃坊が受け取り、今年の分は損免分を考慮して受け取るよう、竹生島花王坊へ申し渡したとの旨を竹生島年行事に宛てました。知勇兼ね備えた人物と評される遠藤喜右衛門の行政手腕が発揮された場面と言えますね。

 ついでこの遠藤喜右衛門の書状に対して竹生島瑠璃坊は、渡海してきた笠原方から去年分の七石五斗を受け取っこと、しかし、振舞料の一俵については、「近年振舞不仕候」として受け取れなかった旨を伝えて、再度、遠藤喜右衛門に振舞料のことを頼みます。しかし、遠藤の返答は、もう少し様子を見たほうが良い旨、今年の損免の認定を行なってほしい旨を伝えただけでした。遠藤としては、本丸の七石五斗を勝ち得たので、良い落としどころであると判断したのでしょう。慣習化していたにせよ、振舞料は当人(笠原方)の気持ちの問題であるという合理的な判断がなされています。それよりも今年の損免判定を優先し、前に進むことを指示したのです。

小谷城址「山王丸」付近から見た竹生島

 その一方で、遠藤の主君浅井長政は、一二月一七日付けで笠原方の人であろう笠原又三郎へ書状を送り、改めて「竹生島天女御供米並振舞料」を前々の如く納めるよう下知しています。さらにその二日後付けで、笠原行永本人宛にも足利尊氏寄進の日御供米を納めることと、「毎年島衆振舞之古法有之」として竹生島の要望に沿う内容の書状を送りました。以後は、長政の指示どおりになったのでしょう。竹生島の永禄十一年納帳には、新井郷内の一町六反大について切米七石五斗、並びに振舞料一俵、合計八石が、笠原方取次として記されています。

 遠藤喜右衛門の行政手腕と、竹生島の大旦那であり、北近江の覇者となった浅井長政の領国経営力が発揮された場面です。