江戸時代、竹生島の祭礼行事「蓮華会(れんげえ)」の頭役を受けると名字を許されることがあります。厳密に言うと頭役を受けた者が居住する村名を、名字として名乗ることを竹生島が免状を発行し認めるのです。村名を名字とすることは、恐れ多い事であったのでしょうか。不思議とその者が居住する村名を名字としている家は今日でも意外と少ないのです。他地域に居住する者が、自家の出身地に思いを馳せ、往古に住んでいた村名を名字とすることは時々見かけます。名字の由来は、地形由来、地名由来、方角由来、職業由来、故事由来、領主から拝領由来等々、色々な根拠があるものですが、一応、旧浅井郡居住者で村名を名字としている家は、竹生島頭役由来を念頭に置くべきです。

名字を賜った例

 竹生島頭役由来とはっきり分かる家は、そう多くはありませんが数家あります。

大浜姓

 その代表例が、大浜村(現、長浜市大浜町)に居住し、江戸時代、湖北地域の大和郡山藩領の大庄屋を務めた大浜太郎兵衛家です。大浜家に残された膨大な古文書史料(滋賀大学経済学部附属史料館寄託「大浜家文書」)によって、大浜家の元来の名字を知ることが出来ます。「勝木」姓を名乗っていたのです。それが元禄四年(一六九一)の蓮華会先頭を受けた際に、竹生島から大浜姓を免許され、それ以降は大浜を名乗るようになりました。それ以前の太郎兵衛は、元禄四年(一六九一)六月に大和郡山藩に提出した「江州浅井郡村々寺社書付帳」(「大浜家文書」)の署名では「勝木太郎兵衛」と署名していましたので、元禄四年(一六九一)の蓮華会を境に「勝木」姓から「大浜」姓へと変わったことがはっきりと分かります。

難波姓

 次に紹介するのは、元禄九年(一六九六)に先頭を受けた際に「難波」姓を許された、難波村(現、長浜市難波町)の乾庄九郎のケースと、享保七年(一七二二)に後頭を受け、同じく「難波」姓を許された難波村の中村林助のケースです。この二人(二家)は、後に大業を成します。一八世紀の中頃、和暦でいうと寛延から宝暦の初めの頃、高級絹織物「浜ちりめん」を創始した人物なのです。詳しい内容は、ここでは割愛しますが、それまで秘されてきた「丹後ちりめん」の技術を当地に導入し、その創始過程で投獄されるなどの苦難を乗り越え、彦根藩の威光のもと、高級織物の「近江ちりめん」またの名は「江州ちりめん」の京都での販売に成功したのです。蓮華会により難波姓受けたのは、おそらくは乾庄九郎が先代で、中村林助が当人ではないかと推察されます。この二人の場合、名誉ある村名名字を許されたものの、実際にはそれまで名乗ってきた姓を使い続けています。こうした行動は、竹生島に対して不義理にはならないのでしょうか?それは不明ですが、その後、近世において蓮華会の頭はこの二家には差していません。

中野姓

 そのほか、正徳三年(一七一三)に先頭を受けた中野村(現、長浜市中野町)の服部西右衛門は、村名名字の中野姓を許されたことが分かっています。

八木姓

 もう一件、気にかかるのが下八木村(現、長浜市下八木町)の「八木」姓です。八木姓は、中世の下八木村には見当たらない名字です。後に八木姓を名乗る家は、室町時代から戦国時代にかけて下八木村の侍衆として力を持っていた弓削兵庫助家です。そして八木姓の本家と目される八木吉右衛門家は、明治一二年(一八七九)には「八木吉右衛門」を名乗っていますが、正徳二年(一七一二)・宝暦一〇年(一七六〇)・文化一〇年(一八一三)にそれぞれ先頭を受けた際には「弓削」姓を名乗っていましたので、江戸時代の末期頃に弓削姓から八木姓に変わったものと考えられます。

 また、弓削善左衛門家に生まれ、四条派の絵師として大成した八木奇峰(一八〇六~一八七六)も八木姓を名乗っています。弓削から八木への変更は竹生島蓮華会との関係も考えられない訳ではありませんが可能性としては低いと思います。何故なら、そもそも沓水家以外の下八木村の民には、原則蓮華会の頭は差さないからです(例外はあります)。ただ、下八木村は竹生島に奉仕する三ケ村(別項で詳説します)の一つなので、下八木村では蓮華会に代わる同格の祭礼として、四月祭(しがつまつり)と呼ばれる竹生島の祭礼行事があるので、改姓と四月祭の関係はあるかもしれません。


八木奇峰・雲渓ほか合筆「梅花鳥図」(個人蔵)
 奇峰が梅を描き、その廻りの小鳥を奇峰の子息である雲渓ら5人の絵師が描き、2人が詩を添えています。梅の枝ぶりは奇峰の他の作品と酷似しており、粉本があったものと理解していましす。

藤川姓・山崎姓・吉岡姓・小嶋姓・金谷姓・冨井姓・小野姓・坪田姓

 一方、以前から名乗っていた姓を島が追認したと思われるケースもある。宝永元年(一七〇四)後頭を受けた落合村(現、長浜市落合町)の藤川三郎庄司には藤川姓を免許。宝永四年(一七〇七)後頭を受けた弓削村(現、長浜市弓削町)の庄司には、山崎姓を免許。享保三年(一七一八)に後頭を受けた落合村の源三郎には吉岡姓を免許。享保六年(一七二一)後頭を受けた落合村の覚左衛門には小嶋姓を免許。享保一五年(一七三〇)に後頭を受けた落合村の三郎左衛門に 金谷姓を免許。享保二〇年(一七三五)に先頭を受けた高山村(現、長浜市高山町)の冨井又五郎尉に冨井姓を免許。元文四年(一七三九)に後頭を受けた難波村の小野角兵衛に小野姓を免許。寛保二年(一七四二)に後頭を受けた落合村の五兵衛に坪田を免許したケースであります。こうした名字の追認は、当家にとっては大変名誉なことですし、竹生島にとっても、冥加金を得ることができたので有難いことだったのです。

名字免許のルール

 ここで、島の名字免許に関するルールを記しておきましょう。江戸時代後期に書かれた「名字の許状並頭文ニ名字記ス覚」によると、蓮華会の頭を受ける際に、当家が先祖から名乗っている名字がある場合は、名字免許状は必要としません。ただし、当家が希望した場合には免許状を遣わすことができます。名字追認です。名字免許状の発行料は、白銀五枚の献上です。その白銀は竹生島衆徒のリーダーである四人衆で分配します。

名字免許の消滅と社会の近代化

 さて、一八世紀中頃以降、頭役の名前を記録した帳面には、ほとんどの頭役に名字が記されるようになります。それに伴い島から名字を遣わしたという記録もなくなります。これは、新たに名字を取得したいという頭役が無くなってきたことを意味しています。ただでさえ大きな経済的負担を伴う蓮華会の受頭であるので、出来るだけコストを抑えた形で「蓮華のの長者」の名誉を得たいという志向が広まっていった結果でしょう。そうしたコストダウン志向は、蓮華会の規式にも表れており、正式な祭りの形である「本規式」が行わなれなくなり、簡略化した「略規式」で行う蓮華会が多数を占めるようになっていく傾向も読み取れます。

 また、「御仕法」の実践も影響しているように思われます。「御仕法」とは、簡単に言えば農村社会の疲弊を復興させるための質素倹約政策です。万延二年(一八六一)正月、曽根東福寺村(現、長浜市曽根町東福寺組)の有力者である大橋半右衛門は竹生島に対して、万延二年から二〇年間「御仕法」するよう領主から指示されたので、その間は蓮華会の頭役を決める鬮には、自らの鬮札を入れないように申し入れをし、その代償として御灯明油料金三両を島に上納しています。さらに、大橋半右衛門は、除鬮期限の二〇年間が満了する直前の一八年目にあたる明治一二年(一八七九)五月一日に、金八〇円を竹生島寺務長妙覚院住職峰覚以に上納し、蓮華会の御鬮札を永代除くよう要請しました。浅井郡内の富裕者の中には蓮華会の頭役を負担に感じている者も現れ始めたのです。竹生島信仰も社会の近代化の波にさらされながら、新しい時代を迎えることになります。