古い竹生島絵葉書
 船溜まりから月定院を見上げた写真。二つ目の鳥居の上にある建物が、享保一三年(一七二八)に円阿が再建した月定院。

 

 円阿(一六九四~一七五二)は、江戸時代の竹生島月定院の住職。月定院第一三世。元文元年(一七三六)の頃には一乗院を兼住していました。号は智伝坊。浅井郡川道村(現、長浜市川道町)の塚田茂左衛門家に出生。医王山惣持寺(現、滋賀県長浜市宮司町の真言宗の寺院)の覚音が、印可伝法の師。円阿の取立てで竹生島一乗院の住職になった光珍は、同郷川道村の橋本宗兵衛家の出生です。月定院第一四世円充(一七歳で早世)、月定院中興第一五世円明、菅浦村(現、長浜市西浅井町菅浦)興徳坊の住職栄雄の師でもあります。

 享保八年(一七二三)三月三日の島繋ぎ神事における「奉備御神備」のメンバーは、権大僧都庭賢・権大僧都宥誉・権大僧都祐盛・権大僧都円祐(以上、四人衆。以下第五座から第一四座。)、阿闇梨栄春・阿闇梨照存・阿闇梨庭凰・阿闇梨舜旭・阿闇梨光莫・阿闇梨皓雄・阿闇梨実門・阿闇梨登翁・阿闇梨円阿・阿闇梨学雄の一四人で、この時、円阿は第一三座であることが判明します。

 享保一三年(一七二八)には、月定院客殿を再建します。棟札は現存し、裏面に「月定院住金剛仏子円阿」の墨書があります。なお、建築を担当した大工は、浅井郡冨田村(現、長浜市富田町)に居住した竹生島の宮大工である西島但馬貞陳です。

 享保一六年(一七三一)九月一一日に権少僧都を免許されます。

 享保一七年(一七三二)一一月に「月定院領地帳」を作成します。その時の月定院の寺領は、二九石九斗二升三合。

 享保二一年(一七三六)三月二日に権大僧都を免許されます。

元文元年(一七三六)七月、惣持坊屋敷を兼住していていましたが、妙覚院登翁の所望により、花光坊屋敷と交換しました。その際の証判は常行院欽興。

 寛保元年(一七四一)六月三日に法印を免許されます。

 寛保二年(一七四二)正月七日、常行院観興(=歓興、=専融、=専祐)の横暴に対して他の院坊の僧侶が連判して対抗します。竹生島第一座の常行院観興は、平生の振る舞いが横暴であり、一山の定法に背いているとして、山内僧らが申合一札を交わしたのです。去る寛保元年(一七四一)の大阪開帳時の金銭的私的流用が問題視されたのです。一札を交わした僧は、吉祥院真城(第一座)・妙覚院登翁(第二座)・月定院円阿(第三座)・梅本坊学雄(第四座)・一乗院光珍(第五座)・花王院実祐(第六座)です。

 ちなみにこの時期、実相院と金竹坊は無住ですので、これまで第一座であった常行院観興を含めて、島内に院坊が九院坊あり、そのうち七院坊に僧侶がいたことが分かります。

 寛保二年(一七四二)一一月一五日、色衣(香色)を免許されます。

 宝暦二年(一七五二)六月二六日、五八歳で入寂します。

 多くの弟子を育て月定院を再建した円阿。彼の功績は、竹生島月定院の存続繁栄を成し遂げ、菅浦興徳坊の法流を重興したことにあります。

 円阿(一六九四~一七五二)は、江戸時代の竹生島月定院の住職。月定院第一三世。元文元年(一七三六)の頃には一乗院を兼住していました。号は智伝坊。浅井郡川道村(現、長浜市川道町)の塚田茂左衛門家に出生。医王山惣持寺(現、滋賀県長浜市宮司町の真言宗の寺院)の覚音が、印可伝法の師。円阿の取立てで竹生島一乗院の住職になった光珍は、同郷川道村の橋本宗兵衛家の出生です。月定院第一四世円充(一七歳で早世)、月定院中興第一五世円明、菅浦村(現、長浜市西浅井町菅浦)興徳坊の住職栄雄の師でもあります。

 享保八年(一七二三)三月三日の島繋ぎ神事における「奉備御神備」のメンバーは、権大僧都庭賢・権大僧都宥誉・権大僧都祐盛・権大僧都円祐(以上、四人衆。以下第五座から第一四座。)、阿闇梨栄春・阿闇梨照存・阿闇梨庭凰・阿闇梨舜旭・阿闇梨光莫・阿闇梨皓雄・阿闇梨実門・阿闇梨登翁・阿闇梨円阿・阿闇梨学雄の一四人で、この時、円阿は第一三座であることが判明します。

 享保一三年(一七二八)には、月定院客殿を再建します。棟札は現存し、裏面に「月定院住金剛仏子円阿」の墨書があります。なお、建築を担当した大工は、浅井郡冨田村(現、長浜市富田町)に居住した竹生島の宮大工である西島但馬貞陳です。

 享保一六年(一七三一)九月一一日に権少僧都を免許されます。

 享保一七年(一七三二)一一月に「月定院領地帳」を作成します。その時の月定院の寺領は、二九石九斗二升三合。

 享保二一年(一七三六)三月二日に権大僧都を免許されます。

元文元年(一七三六)七月、惣持坊屋敷を兼住していていましたが、妙覚院登翁の所望により、花光坊屋敷と交換しました。その際の証判は常行院欽興。

 寛保元年(一七四一)六月三日に法印を免許されます。

 寛保二年(一七四二)正月七日、常行院観興(=歓興、=専融、=専祐)の横暴に対して他の院坊の僧侶が連判して対抗します。竹生島第一座の常行院観興は、平生の振る舞いが横暴であり、一山の定法に背いているとして、山内僧らが申合一札を交わしたのです。去る寛保元年(一七四一)の大阪開帳時の金銭的私的流用が問題視されたのです。一札を交わした僧は、吉祥院真城(第一座)・妙覚院登翁(第二座)・月定院円阿(第三座)・梅本坊学雄(第四座)・一乗院光珍(第五座)・花王院実祐(第六座)です。

 ちなみにこの時期、実相院と金竹坊は無住ですので、これまで第一座であった常行院観興を含めて、島内に院坊が九院坊あり、そのうち七院坊に僧侶がいたことが分かります。

 寛保二年(一七四二)一一月一五日、色衣(香色)を免許されます。

 宝暦二年(一七五二)六月二六日、五八歳で入寂します。

 多くの弟子を育て月定院を再建した円阿。彼の功績は、竹生島月定院の存続繁栄を成し遂げ、菅浦興徳坊の法流を重興したことにあります。