竹生島鯰免状(個人蔵)

 浅井郡山本村(現、長浜市湖北町山本)の嶋崎左小は、明和五年(一七六八)六月一九日付けの鯰免状によって、鯰を食すことを許されました。この時の寺主は登翁。鯰は竹生島を守護です。

登翁の略歴

 登翁(一六九七~一七八八)は、竹生島妙覚院第十世の住職。竹生島花王院・金竹坊・吉祥院の住職。仮名は為山。号は得寿院。近江国浅井郡田中村(現、長浜市湖北町田中)の松居長右衛門の八男。幼名は繁丸。妙覚院第九世庭凰和尚の実弟で法弟。吉祥院第七世庭賢和尚の弟子でもあります。医王山惣持寺(現、長浜市宮司町の寺院)の大阿闇梨亮超が灌頂の師。同寺の大阿闇梨覚音は、印可伝法の師。風早実積(公卿・一六九一~一七三五)の猶子。竹生島実相院に寓居していた鞠真堂見如は実兄。七歳の時に竹生島に入山。一三歳の時に剃髪して民部卿と称します。一四歳にして、竹生島第一三座に衆列し、林蔵院と称します。享保六年(一七二一)五月六日、権律師を免許。享保一〇年(一七二五)八月七日、権少僧都を免許。享保一四年(一七二九)三月一〇日、権大僧都を免許。享保一七年(一七三二)三月七日には妙覚院から花王院に移り住職となります。この時、一山中より嘉儀として青鳧(せいふ・銭の異名)五百疋を給わりました。同時に、妙覚院第九世庭凰和尚から金子二百疋を恵贈されました。享保一八年(一七三三)二月一日、法印を免許。

 享保二一年(一七三六)、加賀国土室(現、石川県能美郡川北町土室)の滝澤半兵衛の子の市郎(一一歳)を弟子にとります。市郎は千賀丸と称し、後には竹生島花王院第七世住職の兵部卿成祐となります。登翁は、元文元年((一七三六)七月六日に再び妙覚院の住職に戻ります。元文3年(1738)に登翁の後住として四郎次郎を弟子としました。四郎次郎は七歳。坂田郡小田村(現、米原市小田)の竹腰三良左衛門の四男で、称菊丸と称しました。後に民部卿豊恭となります。その他、弟子に妙覚院十一世の亶哲や孟范がいます。寛保年(一七四三)頃には竹生島金竹坊を兼住します。寛保保年(一七四三)一〇月二九日、色衣着用を免許。寛保四年(一七四四)三月時点で竹生島僧侶の第二位の二﨟を務めています。宝暦八年(一七五八)から天明七年(一七八七)までは、竹生島僧侶の最上位である一﨟を務めました。

 宝暦九年(一七五九)二月には、京での出開帳の為に上洛していましたが、この間に竹生島では二月一三日の酉刻に吉祥院より出火、飛火して梅本坊・実相院が類焼し焼失しました。一四日巳刻に鎮火。不幸中の幸いは、御殿や観音堂等の主要な堂社は無事であったことです。この時、吉祥院は不定(無住)で登翁の妙覚院が兼住していました。 

 天明七年(一七八七)に竹生島の一﨟を退いた後、閑居。翌天明八年(一七八八)一〇月一四日、九二歳で入寂。浅井郡菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)にある妙覚院の末寺宝光坊に葬られました。

事績

・元文元年(一七三六)七月、妙覚院登翁の所望で、妙覚院所有の花光坊屋敷一カ所と一乗院の持地の惣持坊屋敷一カ所を交換しました。

・寛保二年(一七四二)三月、「勅願三季御祈祷用録」を記し、「妙覚院が存続しているのは、古から今に至るまで朝廷に対して不断の御祈祷・御加持等を行なってきたからである」と説きました。

・寛保二年(一七四二)三月、「竹生島妙覚院伝記」を記し、「妙覚院は神亀元年に聖武天皇の勅願により四十九院が建立されたその時の内の一院である」と妙覚院の正統性を説き、「千有余年、朝廷の御祈願所、御撫物、加持三季を勤めてきたこと」、「加えて将軍家の御祈所として、江戸に詣でて祈祷札を将軍家に持参するなど鎮護の密場である」と説きました。

・延享三年(一七四六)二月、幕府による御朱印改めの際に二条役所に提出する為に、竹生島の明細を記した「竹生島寺格之留書」を作成しました。

・寛延元年(一七四八)、江戸の護持院が所蔵していた竹生島縁起を写しました。元本は享保年間に八代将軍徳川吉宗にお見せしたものであるといいます。

・明和八年(一七七一)一月二二日、公家との付き合いを記録した「禁裏勤用録」を作成しました。

・「将軍家御年礼御巻数献上録」を記し、その中で江戸次代前期に妙覚院が一時衰退したことや、それが先師によって中興され、将軍家とのかかわりが復活したことなどを明らかにしました。

・公家との親交も深く、特に風早前宰相伊予権守藤原朝臣実積卿は、登翁の強い後ろ盾となっており、登翁は実積夫妻の猶子となっています。宝暦九年(一七五九)三月三日から四月三日に行なった京・金蓮寺での出開帳(弁才天像・観音像・地蔵等)時にも風早家は登翁の為に尽力しています。