切り立つ竹生島の四周 
 観阿 (?~一七八七)は、竹生島吉祥院中興第十世住職。吉祥院中興第九世の真城和尚の弟子。吉祥院を再建築。後に吉祥院第十三世住職となる隋泉を弟子としました。

 出身は、紀伊国根来寺の近在の那賀郡西安上村(現、岩出市西安上)の龍助の子息。

京都から江戸へ 吉祥院真城と出会う

 観阿は、京都竹田(現、京都市伏見区竹田)安楽寿院の某坊の弟子でしたが、剃髪後、師匠(某)に故障ができたので師弟共に離山出府し江戸に出ました。

 江戸滞在中に吉祥院第九世の真城と、真城の宿寺である本所弥勒寺の塔頭宝珠院で出会い寄弟となります。真城の入寂〔宝暦七年(一七五七)〕後、青山の浄性院〔現、東京都渋谷区神宮前の熊野権現社(現、青山熊野神社)の別当として三光山浄性院が、明治の神仏分離時まで存在したが廃寺となる〕の住職となります。

 宝暦七年(一七五七)三月からは、竹生島吉祥院の住職も兼ね、天明七年(一七八七)八月の入寂まで住職を務めました。

 明和年中(一七六四~七二)には竹生島吉祥院第十世の住職になった旨を披露します。

竹生島四人衆として

 明和八年(一七七一)一一月二〇日、竹生島現立九院の坊号を四人衆が定めます。その時の四人衆は、妙覚院登翁、一乗院文定、月定院円明、吉祥院観阿です。なお、各院の坊号は次の通り。妙覚院は宝乗坊、一乗院は仲養坊、常行院は蓮花坊、花王院は東南坊、金竹坊は玉蔵院、月定院は平等坊、吉祥院は成就坊、梅本坊は法輪院、実相院は円城坊です。

江戸と竹生島に足跡を残す

 その後、青山の浄性院を賢勝房に譲り、自身は洲崎(現、東京都江東区木場六丁目の一部)の海潮山増福院に隠居し五年間ほど住居しました。

 安永八年(一七七九)二月一日付けで、智積院役事である妙徳院から、「浄性院は不慮の失火で先ごろ焼失したので再建に努めるよう指示する」旨の書状が「前浄性院吉祥院観阿」宛てに出されました。この書状は竹生島に残されていますので、安永八年には観阿は竹生島に在島していたと思われます。

 天明五年(一七八五)正月一〇日に、菅浦村(現、長浜市西浅井町菅浦)の市右衛門が「竹生島免状之事」を受けています。その時の四人衆は、寺主法印登翁・上座法印円明・修理別当法印文定・権別当法印観阿で、観阿は第四座でした。

 天明六年(一七八六)三月三日に竹生島の惣神事の頭人を勤めます。

 天明七年(一七八四)四月には、関口(現、東京都文京区関口)の目白不動の別当所である東豊山新長谷寺に移住します。

 天明七年(一七八七)七月下旬には持病の積気(しゃっき・原因不明の内臓疾患)が悪化し、八月十二日に江戸において入寂。四谷北町の和光院に五輪塔を建立し葬られました。

山伏としての側面も

 甲賀(現、滋賀県甲賀市)の飯道寺廃寺の僧侶名一覧(「滋賀県甲賀市 飯道山の歴史 飯道山と飯道山麗の紹介」HP)に「吉祥院弟子観阿」とあります。当時の「吉祥院」とは真城のことでしょう。観阿は、江戸を中心に活動し、甲賀の修験寺院である飯道寺にも出入りし、修行していたことになります。竹生島の衆徒の中には中世以降多くの山伏が存在していたことが指摘されています。観阿もまたそうした一人だったのでしょう。兎に角じっとしていないアクティブな僧侶でした。