紙本版画竹生島出現之図(個人蔵)

関東系竹生島僧侶の火付け役

 真城(一六八四~一七五七)は、竹生島吉祥院第九世の住職。吉祥院第七世庭賢の弟子。播磨国の人。前名は実門。第八世の実門(真城とは別人)が隠居したのに伴い、享保三年(一七二八)七月に吉祥院の住職につきます。江戸において竹生島の僧侶として取り立てられたので、江戸駐在の衆徒です。江戸本所の弥勒寺(東京都墨田区立川)の塔頭である宝珠院を宿寺としていました。真城が江戸で竹生島衆徒としてスカウトされて以降、十九世紀前半にかけて、関東圏からの入衆が相次ぎます。関東ブーム勃発です。

もちろん竹生島でも着実に活躍

 享保八年(一七二三)三月三日の島繋ぎ神事における「奉備御神備〕のメンバーは序列順に、権大僧都庭賢・権大僧都宥誉・権大僧都祐盛・権大僧都円祐・阿闇梨栄春・阿闇梨照存・阿闇梨庭凰・阿闇梨舜旭・阿闇梨光英・阿闇梨皓雄・阿闇梨実門・阿闇梨登翁・阿闇梨円阿・阿闇梨学雄の一四人です。最初の四人が四人衆で、実門(のちの真城)は第十一座に列しています。

 寛保二年(一七四二)正月七日、竹生島の寺主常行院観興(専融)の横暴に対して他の院坊の僧侶が連判して対抗しました。竹生島第一座の常行院観興は平生の振る舞いが横暴であり、一山の定法に背いているとして、山内僧らが申合一札を交わしたのです。特に、去る酉年の大阪開帳時の金銭的私的流用が問題視したのです。一札を交わした僧は、吉祥院真城・妙覚院登翁・月定院円阿・梅本坊学雄・一乗院光珍・花王院実祐。結果、常行院は第一座を退き、第二座であった吉祥院真城が寺主に昇格します。

やっぱり江戸が良かったの?

 その後、亡くなる宝暦七年(一七五七)まで竹生島の一﨟を務めました。また、江戸滞在中に観阿を江戸に呼び寄せ弟子とし、竹生島吉祥院の後住に定めました。

 宝暦七年(一七五七)正月二一日、吉祥院住職のまま、江戸・弥勒寺塔頭の宝珠院で七四歳で入寂。弥勒寺に五輪塔を建て墓所としました。

 真城は、竹生島吉祥院の住職でありながら、しかも晩年は一﨟でありながら、江戸に居続けた理由は何だったのでしょうか?幕府との交渉事なのでしょうか。その理由は判然としませんが、真城が江戸に駐在する必要性が竹生島にはあったのでしょう。もちろん、島繋ぎの神事や蓮華会の際には竹生島に登山していたようです。近江と江戸を行ったり来たり、なかなか大変な人生ですね。