平成12年に再建された宝厳寺三重塔

栄範(?~?)は、江戸時代後期のの竹生島常行院の住職。宝州房と号しています。常行院専融の弟子。竹生島吉祥院専純とは弟子兄弟。浅井郡小野寺村(現、長浜市小野寺町)の伊吹勘吾家出身。なので関東出身ではありませんが、弟子らが関東との縁をつくりました。

 出流(いずる・現、栃木県出流町)の千手院の住職となる栄雅と、江戸・浄性院の住職となる光雅の二人は、栄範の弟子です。栄範の弟子二人が関東で活躍することになります。

 

栄雅(二代目・?~一八二八)は、伊香郡木之本宿(現、長浜市木之本町木之本)の黒田屋の生まれ。出流(いずる・現、栃木県出流町)の千手院の住職。栄範の弟子。光雅の法兄です。文政一一年(一八二八)六月六日に入寂。なお、戦国時代にも竹生島には栄雅(初代)を名乗る僧侶がいましたが、もちろん別人です。初代栄雅は、和尚を務めた人物で、天文三年(一五三八)一二月日付けで、菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)から油一升を受け取っています。また天文六年(一五四一)一二月廿八日付けで、菅浦から油六合を受け取った記録が残っています。

 

光雅(一七五五~一八二八)近江国坂田郡伊吹村(現、米原市伊吹の一部)の岩右衛門の子息。号は慈仙房。江戸、浄性院の住職。同じく浄性院の住職を務めた隋阿・得妙兄弟の師匠。栄範の弟子。栄雅の法弟。文政十一年(一八二八)五月六日に六四歳で入寂します。

 

得妙(?~一八四四)は江戸出身。御家人百人町(現、東京都新宿区百人町)の古川渡平の子息。隋阿とは兄弟で、得妙は兄。江戸青山の浄性院の住職。一時期は竹生島吉祥院の住職を兼ねていました。光雅の弟子。天保一五年(一八四四)一二月六日入寂。

隋阿(?~一八三二)は江戸出身。御家人百人町(現、東京都新宿区百人町)の古川渡平の子息。得妙とは兄弟で、隋阿は弟。仮名は快量。隋泉の弟子。竹生島吉祥院の住職。浄性院を兼住しています。天保三年(一八三二)二月八日に入寂。

 

円融(?~一八四三)江戸出生。江戸において月定院第十七世円情和尚に取り立てられましたが、病気がちで天保一四年(一八四三)七月、江戸青山浄性院において病死しました。

 竹生島吉祥院と青山浄性院の関係が深いことは、吉祥院観阿が浄性院の住職に着いたことに始まりますが、竹生島月定院の円情が江戸で弟子を取り立てることは珍しいと思います。円情が江戸に行ったという記録は竹生島には残ってはいませんが、竹生島の和尚を務めた人物ですから、江戸に行くこともあったのでしょう。江戸での竹生島僧侶の取り立ては、各印坊の存続を掛けた新しい戦略だったのかもしれません。

専覚(一七八八~一八三一)は、竹生島一乗院の住職。吉祥院専純和尚の弟子として竹生島に横入(おうにゅう)。元は覚本と言います。専純和尚に従ったので専覚と名乗るようになりました。出身は、下総国角廉郡(葛飾郡)小平村(現、千葉県野田市の一部か?)。渡辺久右衛門の子息。同郡東金ノ井(現、千葉県野田市東金野井)の清泰寺法印覚意に随従して、寛政十一年(一七九九)十二歳で得度しました。この年の六月二九日に師の覚意法印は入寂。一六歳の時に本山(長谷寺)の交衆(きょうしゅう。学侶として教学を学ぶ)として、上京北野十二坊真言院(現、京都市北区紫野十二坊町の真言院)に寓居します。真言院の住職と専覚とが同国出身であった縁です。

無念、吉祥院の住職になれず

 翌文化元年(一八〇四)初冬には、吉祥院専純和尚の弟子となり、竹生島に入衆します。しかし師専純は翌文化二年(一八〇五)正月八日に入寂。吉祥院の後住は専覚とはならず、江戸浄性院住職の随泉が竹生島に入り吉祥院の後住となりました。随泉は、先師観阿の弟子。しかし文化二年(一八〇五)十一月二七日、随泉が入寂。随泉は、弟子である随阿を吉祥院の住職としてほしいと遺言を残します。随阿は、随泉が浄性院時代に取り立てた弟子。これによって、専覚は詮方無く文化四年(一八〇七)に竹生島一乗院文宜和尚の弟子となり、惣持寺(長浜市宮司町の総持寺)の真岳和上に随従します。翌文化五年(一八〇八)には一乗院の住職となります。文政九年(一八二六)には、衆評(竹生島衆徒の評議)により、妙覚院へ移り寺務にあたりました。

弟子が一人前になり下総に帰郷

 当時一四歳の専覚の弟子である文専が一乗院の留守居となります。その後、天保二年(一八三一)専覚は、清泰寺覚意の三十三回忌に当たるので、生国(下総国)下向を思い立ち、四月に発駕し生国に下向し、そこで発病。五月二八日に入寂します。四四歳でした。清泰寺で清泰寺住職の戒山法印が葬式を執り行い丁重に葬られたとのこと。このとき専覚の弟子である文専は一九歳。天保二年(一八三一)七月に竹生島一乗院の住職となります。