昭和に再建された長浜城

蓮華会頭人の差定

 まず、竹生島最大の祭礼行事「蓮華会(れんげえ)」の頭人(祭の主役)の差定(選定)ついて概略を説明します。

 蓮華会の頭人は、浅井郡(現、長浜市の一部。旧、東浅井郡、西浅井郡域)に居住する人の中から、予め、人格者を数名選んでおいて、毎年十二月の吉日に弁才天の宝前において籤を取り決定します。年が明けて正月一日より七日までの間、本地である観音の宝前において修正会を勤行し、頭人へ「差シ定ムル」牛王を加持します。八日には先頭(過去に頭人になった実績がある家の人)一人に決定を通知します。差定です。次に十日に後頭(今回初めて頭人になる人)を一人差定します。頭人の者は、法会執行の諸費用を天下の人民に代わりて喜捨します。故に「蓮華の頭人」と称します。

蓮華会の執行について羽柴秀吉にお伺いを立てた竹生島

 さて、竹生島最大の祭礼行事である蓮華会は、北近江の戦乱の影響なのか元亀四年〔天正元年(一五七三)〕には頭人の差定までは執り行われましたが、翌天正二年(一五七四)に実際に蓮華会が執行されたかは不明です。私は無理だと考えています。当時の北近江は、織田信長軍の激しい攻撃を受けていましたし、同年の八月二七日には浅井久政が自害し、九月一日には長政が自害に追い込まれています。浅井氏を大旦那としていた竹生島で、六月一五日の蓮華会が開催されたとはとても思えません。

 では、翌天正三年はどうでしょう。この年も蓮華会は執行されていないと思います。竹生島宝厳寺文書にこの年に蓮華会が開催されたことを伺わせる史料は残ってはいません。また、天正三年に竹生島は、天正四年(一五七六)の蓮華会執行の可否について、長浜城主の羽柴秀吉に使僧を遣わし問うています。当時秀吉は岐阜に行っており留守であったため、秀吉の奉行である桑山重勝と卜真斎信貞が連署して天正三年十二月八日付けの書状で返答しています。その内容は、秀吉が長浜城へ帰城した際に、竹生島からの書状を披露し、取り扱いを伺うとした上で、一般論として「先例に任すべき」との考えを示し、蓮華会の再開に一定の理解を示しました。この秀吉側の返答を受けて、実際、天正四年(一五七六)には、蓮華会が執行されたようです。蓮華会の本日が終わった数日後の、天正四年六月二〇日に、先頭の小観音寺村(現、長浜市小観音寺町)の上野平衛門と後頭の西郡西津介衛門(村不明)が支出した二十貫文の使途明細を記した文書の断片が竹生島宝厳寺文書に残っています。その後、天正五年・六年(一五七七・八)の記録はありません。次に確実なのは、天正七年(一五七九)に早崎平介の先頭受頭です。

島繋ぎの神事

 永禄十三(元亀元)年(一五七〇)、元亀二年(一五七一)、元亀三年(一五七二)、天正二年(一五七四)の島繋ぎの神事の記録は残っていません。これがいわゆる「元亀争乱」と関係しているか否かは分かりません。単に過去の資料が失われただけかもしれませんが。ともかくも竹生島周辺地域は、浅井氏支配の時代から織田信長支配時代に移行していた厳しい時代でした。竹生島の衆徒も苦労したものと推察します。ちなみに、永禄十二年(一五六九)の竹生島四人衆は、栄翁(第一座)、行充(第二座)、快雄(第三座)、円運(第四座)。天正三年(一五七五)の四人衆は、快雄(第一座)、円運(第二座)、行意(第三座)、快済(第四座)です。