宝厳寺弁才天堂

衆徒の序列ルール

 近世以前、竹生島において「衆徒」という言葉は、「僧侶」とほぼ同じ意味で使われています。もう少し詳しく意味を説明しますと、「竹生島の院坊に居住し、島の運営や宗教行事を執行する僧侶」で、近世には一八段階の階級がありました。第一座から第一八座まであったということです。

 その中でも上位四人は「四人衆」と呼ばれ、特別な存在です。四人衆は島の運営を取り仕切る立場の僧侶たちです。僧職名があり、第一座を「寺主」、第二座を「上座」、第三座を「修理別当」、第四座を「権別当」と言います。なお、第五座・第六座のも僧職名があり、第五座を「小寺主」、第六座を「都維那」と呼びます。

 さて、一八段階の序列は、竹生島衆徒の経験年数で決まります。いわゆる年功序列です。弟子入りは幼年期であることが多いのですが、島内の院坊に入寺すれば、すぐに序列の最後尾に入ります。また、他の寺院から竹生島へ移籍〔これを横入(おうにゅう)と言います〕してきた僧侶は、同年代の竹生島僧侶より年齢が六歳以上年上の場合は、当該僧侶の一座ないし二座上位に入ります。但し、四人衆が横入によって第五座に下がることはなく、同様に第一〇座の衆徒が横入によって、第一一座に下がることも無く、第一二座の衆徒が横入によって、第一三座に下がることはありません。それぞれの区切りで島内での何らかの扱いが変わる節目なのでしょう。

 

秀吉による竹生島の弱体化とその後

 永禄一〇年(一五六七)に発生した竹生島の大火災以降に復興できた院坊は九つありました。それぞれの院坊に住職一人、その弟子一人の計二人が居住すると、一八人になります。それが大火災以前の中世に遡りますと、概ね三六人の僧侶がいましたので、近世の二倍の人数の衆徒が存在し、序列は第三六座まであったことになります。

 中世には、三六人の大所帯であった竹生島の衆徒は、永禄の大火災から復興した時には、半分の一八人に縮小してしまいました。これはひとえに、天正年間に実施された羽柴秀吉による竹生島領地没収により島の経営基盤が脆弱になったためだ、と言えます。江戸時代の竹生島衆徒は、なんとか少ない領地で寺院を経営すべく、不安定な年貢収入だけに頼らず、富くじを開催したり、坊人による勧進を実施したりして、伽藍維持の努力を重ねていたのです。しかし寺勢の衰えは止まらず、明治維新を迎えるころには、住職は二・三人になっていました。