竹生島の坊人
近江国甲賀郡(現、滋賀県甲賀市)は忍者の里として有名です。古より修験道の霊場として山伏が多く存在し、彼らの活動の一部がいわゆる忍者活動として捉えられています。実はこの山伏、近世の竹生島と深い関係があります。甲賀の山伏のことを、竹生島では「坊人」と呼び、竹生島信仰の流布に利用していました。坊人たちは、諸国を廻り、竹生島の御札を配布し、あるいは霊薬を売りながら島の信仰を説き、加持祈祷を行い、勧進活動を行なっていました。そして年に一度竹生島に渡海して報謝された金品を島に納付していたのです。こうして集められた寄付金は、多額の費用を要する伽藍の維持費として使われていました。
『竹生島宝厳寺文書』には、坊人に関わる史料が三点残されています。二点は、坊人から竹生島へ提出した誓約書。一点は竹生島から坊人に提示した申渡書です。誓約書は、元禄三年(一六九〇)七月吉日付けの「差上申手形之事」(史料一)と、元禄六年(一六九三)三月二一日付け〔宝暦六年(一七五六)に写されたもの〕(史料二)です。この二つは共に、竹生島の坊人を務めるにあたって、坊人が竹生島に提出した一札です。もう一点は申渡書。宝暦六年(一七五六)七月付けで、竹生島が甲賀郡坊人仲間に申し渡した定書(写し)の断片です。この定書の中では、坊人仲間の輪番三人が毎年七月一八日に竹生島へ登山し、朱印(坊人許可証)の更新と諸国で集めた冥加金を納付することが定められ、もし輪番の者が登山しなかった場合は、過料銀一枚を坊人仲間より差し出すこととしています。新規の旦那を獲得した場合は、書面で島に報告すること。また初めて坊人として旦那廻りを希望する者がいる場合、当該人物の世話人があらかじめ坊人仲間とよく相談した上で、内々に竹生島へ報告し、その後正式に世話人と坊人仲間惣代の二人が連署して願書を提出するよう求めています。さらに旦那廻りに際しては、「使僧誰々」と名乗り、竹生島の住職と誤解されないように求め、万事、慎み深く行動するよう求めています。ここでは史料一・二を紹介しておきます。
甲賀流忍者屋敷(望月出雲守旧宅)
◆史料一
差上申手形之事
一、諸国旦那廻り被仰付候通、御信心之
傍々江御札入、勧進可仕候御事
一、毎年七月ニ登山仕、礼銭指上ケ、御免
状取替可申候。諸国ニ而旦那出来仕候参
詣之輩おひて者、御宿坊様ヘ状を添
可申候。其外相違仕候て、御異覧可被遊候御事。
右之外、山(ニ)無是堂社造立之奉架(ママ)
堅仕間敷候。若相違仕候ハハ如何様之
曲事尓も可被仰付候。為後日手形如件
元禄三年庚午七月吉日
甲賀龍法師
主
海順(花押)
同所譲(ママ)人
善性(花押)
善寿
竹生嶋
衆徒中様
【解説】
甲賀郡龍法師(現、甲賀市甲南町竜法師)の海順が、新規に坊人を務めるにあたって竹生島衆徒中に提出した手形です。「同所譲(ママ)人」の善性と善寿が連署していますが、「請人」と書くべきところを「譲人」と誤記しています。
内容は、まず第一条で、海順が「諸国旦那廻り」を拝命したことを述べ、その職務は、竹生島を信仰している人々への御札を配り、勧進活動を行なう事、としています。
第二条では、毎年七月に竹生島に登山し、勧進で得られた礼銭を納付すること。また、竹生島の坊人であることを許可した「免状」を更新すること。さらに、諸国で新規の旦那が出来、竹生島への参詣を希望する者がいる場合は、書面で竹生島の宿坊に報告すること、を誓約しています。
その他事項として、竹生島と無関係の堂社に関する奉加を募らないともしています。事実、甲賀山伏の中には、複数の寺院に所属していた事例もありますので、竹生島に専念させるための誓約書です。
◆史料二
請状之事
一、今度、栄順竹生嶋御判形届候ニ付、久雪
覚玄御両人頼ミ、丹波半国之御朱印頂戴
仕候。然上者、御信心之方江御札配り、勧進可仕候。
余国之儀者、一軒も廻り申間敷候事。
一、毎年七月(ニ)登山し、礼銭指上ケ免状取替
可申事
一、猶、御本寺慮外等仕間敷候事。廻国田舎ニ而
出家之戒行相守可申候。又判形一本ニ而両人
廻り申間敷候。下判出シ申間敷候。其[ ](方中間カ?)
衆中之御相談相背申間敷候事。
一、此栄順ニ付、何方ニ而如何様之六ケ敷義出来仕候共
此請人之者□罷出、金銀入用承り、急度埒明、
其方江少も御苦労掛ケ申間敷候。為後日、仍而一札
如件。
元禄六年酉ノ三月廿一日
主
中将
同
栄順
請人
長雲
同下磯尾村
円式
久雪坊
覚玄坊
【解説】
元禄六年(一六九三)の竹生島坊人仲間の証文。宝暦六年(一七五六)に写されたものであることが裏書によって分かります。「主」が中将と栄順になっています。本文中には栄順の名前のみがあがっていますので、おそらく元は「中将」の請状も存在していたが、竹生島の僧侶が宝暦六年に書写したときに、同文であった中将の請状の書写を省き、連署にのみ中将の名を記したのであろう、と理解しておきます。
さらに請人(保証人)として、長雲と下磯尾村(現、甲賀市甲南町磯尾)の円式が連署しています。居住する村名が記されていませんが、中将と栄順、それに久雪坊と覚玄坊も、坊人(山伏)が多く居住していた下磯尾村在住の坊人であるかもしれません。ただし、この文書が書かれた元禄六年(一六九三)から遡ること八年前の、貞享二年(一六八五)八月二日に、山伏の当山派の醍醐三宝院から「頭襟役銀」を請求された下磯尾村の三六名の山伏名の中には、「長雲」と「円式」の名が挙がるのみで、久雪坊・覚玄坊の名は見えません(「吉田金雄家文書」『甲賀市史第三巻』二〇一四年二月二八日、甲賀市発行)。
江戸時代、下磯尾村を含む甲賀地域には、いわゆる「山伏」が里に定着して民間宗教者となり、諸国に赴き、祈祷や治病などを行なっていました。この地域の男子の大半が天台宗信徒であり修験行者であると言います(『甲賀郡志』)から驚きです。そして彼らは、有力寺社に所属し、その寺社の祈祷札を配布していたのです。この文書では、栄順は丹波国半国を担当しています。具体的に何郡に相当する地域なのかは分かりませんが、栄順は、この地域で竹生島を信心する旦那を廻り、配札し、勧進を行なっていたのです。
坊人による売薬
甲賀の坊人についてもう一つ留意すべきは、売薬をあわせて行なっていたということです。現在も甲賀地域には、製薬会社が多いのは知られた事実です。諸国を廻る山伏たちは、売薬あるいは医療を行なっていました。であるならば、竹生島に所属した坊人も売薬に関わっていたのではなかろうか。そう思い、膨大な『竹生島宝厳寺文書』を精査してみると、薬に関わりがある文書が数件残されていました。一つは、漢方の生薬名を書いた処方箋とも思えるメモ書きです。
柴胡 大、黄芩 中、甘草 小、
半夏 中、桂皮 大、芍薬
真芍
頭痛アラ川芎加ヘ、寒アラハ
人参加フ
尤生姜入
咳アラハ杏仁桔梗ヲ加
私は、漢方薬に疎いのですが、それぞれの効能が解熱・鎮痛・去痰・鎮咳・健胃整腸等の作用がありますので、一般的な「風邪」に対する処方箋のように見えます。それぞれの生薬の効能を調べてみました。次のとおりです。
柴胡(さいこ) ミシマサイコの根。漢方で解熱・鎮痛・健胃薬などに用います。
黄芩(おうごん) コガネバナの根。漢方で、解熱・嘔吐・腹痛・下痢などに用います。
甘草(かんぞう) 鎮痛、解毒、去痰、鎮咳などの作用があります。痛み止めとして用いられる甘草湯、風邪(かぜ)のひき始めに効くとして一般的に用いられる葛根湯、胃炎に効く安中散(あんちゅうさん)などに含まれます。また甘味成分が含まれ、薬の苦みを消す甘味材料としても用います。
半夏(はんげ) カラスビシャクの塊茎を乾燥したもの。止嘔、去痰、理気、鎮静等に効能があります。
桂皮(けいひ) クスノキ科のケイの樹皮を乾燥したもの。補陽、発汗、解肌、止痛等に効能があります。
芍薬(しゃくやく) 根は鎮痛・鎮静薬として煎服します。
真芍(しんしゃく) 一般的には皮去りで湯通ししたものが真芍と称されます。
川芎(せんきゅう) 駆瘀血、鎮静、鎮痛、補血、強壮などに効果があるります。
人参(にんじん)朝鮮人参のこと。健胃整腸、鎮痛、去痰、駆風などに効果があります。
生姜(しょうきょう)胃腸薬やかぜ薬に用いられる他,鎮嘔,鎮痛,止瀉などに用いられる漢方薬に高頻度で配合されます。
杏仁(あんにん)漢方で鎮咳・去痰薬にします。
桔梗(ききょう)キキョウの根はサポニンを含み、これには気道の粘膜の分泌をよくするので、去痰の効果があります。
竹生島の秘薬「天女菅想之霊薬」
もう一点、薬に関する史料が残っています。年号は不明ですが、竹生島妙覚院の登翁が「控え」として残したものなので、一八世紀後半の文書です。内容は、竹生島の堂社修復の為に「天女菅想之霊薬」を大坂町中に施薬し、少しの冥加を得たい旨を奉行所に願い出たものです。
天女菅想之霊薬、往古より伝来候處、秘し候て、是迄世上江弘通不仕候。然とも、今般修復迷惑仕候ニ付き、大坂町中江致施薬、少々之冥加銭を請、其助力を以て修補仕度奉存候。
現在の竹生島には、霊薬は全く伝えられていません。「秘し候(薬)」であるから仕方がないのですが、竹生島弁才天の功徳を謳った霊薬がかつて存在したことは、大変興味深いことです。
余談になりますが、坊人たちは本業として、このような霊薬を携えて諸国を巡り布教勧進したのでしょう。そしてそれを隠れ蓑として、実は諜報活動をしていたとされるのが忍者であったのかもしれません。もしかしたら忍者が本業なのかもしれませんが(汗)。
参考資料
『甲賀市史 第三巻』二〇一四年二月二八日、甲賀市発行。