あれから13年…東日本大震災のあの日、
それまでも抗がん剤の治療で病院に罹っていた父でしたが、
あの日、体調不良で2度も救急車で病院に行ってました。
そして、そのまま入院して治療となりましたが、
もう末期でしたから、これ以上やれる事はない…と言う事で、在宅医療に切り替えるよう準備をしました。
本人も退院したいといってたので…
入院していた間、病院と言えども計画停電でしたから、エレベーターも最低限(4機あるうち1機のみ稼働)
ドクターやナース、技師の方々は階段を使ってました。
5階建ての4階に入院した父の為に、母は毎日見舞い兼ねて着替えなど届けに通ってました。
その当時まだ70代半ばの母…自転車で日に2度も行っていた様です。(父が来て欲しいと頼んでたのだと思います)
計画停電でエレベーターは最低限の利用をと言われてましたから…いつも階段を使ってました。
ホント母の体力凄いです。
約10Km離れた我が家にもたまに自転車で来てくれたりもしてたのです
前立腺癌で末期と言われていた父の為に、在宅医療を選択し、
計画停電の中、自宅近くの病院に罹て貰えるよう手配をして、
介護施設に訪問介護の手続きもしました。
家で過ごす為にベットや簡易トイレなどもレンタルしました。
実家に近い総合病院で在宅医療をしてくれると言うので手続きをしてドクターに現状を話し、看取りを依頼し、
介護タクシーで入院していた市立病院から父を連れて行き、在宅医療の準備の手続きをして帰宅…
介護ベットで酸素吸入していた父…
身体を起こしてお話しもできました。
そこから3週間程で、あっけなく逝ってしまいましたが、
自宅での看取りは父母共に納得のいく日々でした。
私もまだフルタイムで仕事をしていたのですが、面会時間等の制限がない在宅医療ならではの恩恵に預かれて良かったです。
最後の日…私が持って行ったボアのシーツに交換する為、
ベットから立ち上がってシーツ交換するのをまってた父…
まさかその夜、逝ってしまうとは思いもしませんでした。
この写真撮ったのは亡くなる日の昼間です
持って行ったパンを美味しい美味しいと食べてくれて…
そんなに時間がないなんて微塵も感じられませんでしたが…
在宅医療🩺で来てくれてたドクターは、
🧑⚕️「もうそんなに時間はないと思います。
できる事なら、会わせたい人を呼んでおいてください…」
…と言ってくれたのですが、
意識もとてもはっきりしていてまさかそんなに早く(その日の深夜)逝くなんて思いもしませんでした。
父は、山口県の出身ですから、山口の親戚に連絡しようかと思いましたが、もう従兄弟世代です
叔父さんの為にわざわざ仕事を休んでまで来てもらう事などできませんから、
本家の従兄弟だけに連絡するにとどまりました。
が、そこから連絡がまわり父の妹の子供(従兄弟)も葬儀に来てくれて…思いもよらない従兄弟会になりました。
これだけは父に感謝しかありせん。
父は女2人男6人兄妹の下から2番目、一番下は妹ですから、男兄弟の一番下でした。
この先、山口県の従兄弟達ともう連絡取りあう事もなくなるでしょうからね
静かに…ドクターの言われたその日の深夜に父は
天に召されました。
ほとんど苦しむ事もなく…眠る様に
真っ白になってた父の頭髪も眉毛も睫毛も…
苦しみから解放された瞬間、元の黒々とした髪に戻りました。
ホント凄い不思議でしたが…あぁ〜これで父も解き放たれたんだな…って思ったものです。
あれから13年…東日本大震災の話題がでるたびに父の最後の1ヶ月が甦ります。
来月8日が命日です。
昨年母と兄と私とで十三回忌をしました。
この時も、妹は勝手な理由を付けて来ませんでしたけどね
東日本大震災から怒涛のひと月…
私と母の切ない想い出の日々です。
今年も父の育てていた花々が庭で咲きだしてます
父の為に頑張ってた母ですが、
早く迎えにきてくれないかしら… が口癖です
この所、認知症の進みも加わり色々やらかしてくれちゃっててホント困り果ててます
この何日か心が折れて落ち込んでしまってるのですが、
こうしてあの頃を想い出して気持ちを立てなおそうとしてます。
母の介護のこと、娘のイチガタの事など…
ぼやきばかりですが、備忘録として書いてます。
何かアドバイスなどありましたら、コメントくださると助かります。
どうぞよろしくお願いします