父と母の不仲をハッキリと感じたのは小学生低学年くらいの時でした。

 
小学生になる前の保育園時代は、そこまで夫婦仲は悪くなかったように思います。
 
父はDV気質には変わりないけど、小学校低学年くらいまでは、父の怒鳴る声や殴られたりとかはなかったように思います。
 
父は「怖い人」というイメージは小さい子供ながらあったけど、
 
私達子供のことは率先して遊びに連れて行ってくれたり、畑で耕した野菜を食べさせてくれたり、ドライブや旅行計画をして、色んなところへ連れて行ってくれて、そこで色んな体験をさせてくれたことは、そこは今でも有り難く感じています。
 
ただ、裏と表の顔が激しく、優しいときもあればいきなり豹変することがあり、そのギャップ(?)にいつも振り回されていました。
 
でも、どんなに色んな一面があっても、母を殴ったり、罵声を浴びたり、理不尽な事で怒り出し、その矛先を母に向けて発散させていたことは、子供ながらに絶対に許すことはできず、憎んでいました。
 
小学校2年か3年くらいの頃に、父がいつ何時でも大声をあげて、母を殴るようになりました。
それまでも不仲であることは変わりなかったけど、暴力を目の当たりにしたことは、これくらいの時期だったように思います。
 
朝食の時間から、父が母に喧嘩を仕掛けてくることも多くなり、怒鳴り声がとても大きかったので、ご近所さんにもその声は届いていて、とても気分の悪い思いをしていました。
 
「ご近所さんに聞こえちゃうから怒鳴らないで」
と、泣きながら言っていて、泣いた顔と喧嘩を目の当たりにして、その足で学校に行くのも憂鬱でした。
 
このくらいから、
「うちは変に見られてるのかな」
「不仲で可哀相って思われてるのかな」
「笑われたりしてるのかな」
 
と、
「周りの目」や「人からどう思われるか」を過剰に気にし過ぎるようにもなりました。
 
その思考はずっと根付きました。
振り返れば、「人の目を気にする」というのも、これが少なからずきっかけでもあるのかなあと感じていますショボーン
 
そんな私は学校へ行っても、楽しい事はたくさんあったけど、何かいつも不安な気持ちを掲げていました。
 
いつも、学校にいる間にも
「母が殴られすぎて死んでたらどうしよう!」
 
と、いつも気が気じゃない思いでドクドクと心臓がなって不安な気持ちが強く、
 
学校終わったら早く帰りたい一心でした。
 
うちは、共稼ぎだったので家に着くと、母の車と父の車がないのを見ると安堵し、
 
「良かった、二人とも仕事行ってるんだ=(母の安否がわかってホッとした)」
 
と、すごくホッとしていました。
 
今思い返せば、
この、ホッとした気持ちも、朝から晩まで夫婦仲の悪さからの、私の感情を激しく揺さぶる原因にもなっていたので、
 
すごく疲れていました。
 
朝はこわい思いする、学校にいる間も心配でドクドク鳴る、家に着いて何も無かったら安心する、また夜が来て二人が仕事から帰ってきたら喧嘩して、それが苦しくて泣く、
 
といったことを毎日繰り返していたので、この頃も精神的の不安定さは(悪い意味で)身に付いたように思います。
 
 
 
私の母は、子供の私が過大評価するわけではないですが、
とても筋の通った、真の強さや賢さ、美貌も兼ね揃えた人で、姉と私をとても愛してくれました。
 
性格も、もともとが明るくポジティブで、姉御肌で、母自身は自分が目立とうとしてなくても、常に誰かに頼られたり、そして母も自然と相談乗ったりしてるので、いつも知らず知らずのうちに周りが寄ってくる、魅力的な人ですおねがい
 
父が姉や私を殴ろうとした時も、母が庇ってくれて、母が殴られたことも何度もあります。
 
だけど、母はそんな中でも、明るく笑顔で私達に接してくれて、さっきまでの恐かった喧嘩の後とは思えないほど、何もなかったように、明るく振る舞い、心配する姉と私に対して、
「大丈夫よ、ママにはあなた達かわいい子供がいるから、ママは元気よ、ほら〜あんた達が泣かないの!そうだ、これからスーパー行ってアイス買いに行こうか」
 
など、今思い出しても泣けるくらい、母の姿はとてもたくましく、真の強さ、ブレない心、曲がったことには絶対に屈しない概念、例えどんなに殴られても間違ったことには従わない、
 
そんな素敵な人です。
 
母大好きっ子で、ずっとくっついていました。
 
父を近づけないようにもしていました。
 
母が守ってくれた分、私も父から母を守る、と。
 
夫婦仲は悪すぎた環境だったけど、母が母でいなかったら、私達姉妹も殴られっぱなしになっていたんじゃないかと思うこともありました。
 
いつも自分の身を呈して、庇ってくれた母、私に、とって最愛の人です照れ
 
そんな母大好きっ子だったからこそ、母を殴る父は大嫌いで、憎しみや嫌悪感を抱くようになってきました。
 
母を殴る父は絶対に許さない!!
 
と、激しく人を憎む感情が生まれたのも父に対してが初めての感情で、
「人を憎む」「憎悪する」
という感情が生まれたのも、父が原因要素でもありました。
 
 
 
 
私は誰かに、
「尊敬する人は誰ですか?」
という質問には
「母です」
と、幼少期から今もずっと変わることなく、答えています。
 
今生きてこられたのも、母の存在は大きすぎ、感謝の気持ちでしかありません。
 
タラレバの話をしても仕方ないけど、
もしあの父のDV気質に加えて、母も屈する人だったり、いい加減な人だったりしたら、命を落としていたと思うくらいだったので、
 
それを思うとまた、母にはずっと感謝でいっぱいです。
 
 
 
〜〜〜☆
そんな生活は相変わらず続き、小学4年生辺りからも、離婚話は出ていました。
このことも、ますます私の心を不安定にさせ、更に悲しくなる要素に拍車をかけました。
 
家にいても、離婚するしないで両親が揉めている。
 
二人は仲良くなることはないだろうと分かってはいたけど、
 
そんな中でも「家族」がバラバラになるのは嫌だ、殴られるのも嫌だけど、家族がバラバラになるのも嫌だ、
 
母も殴られすぎて辛い、しかもむちゃくちゃな俺様理論を通す父とはこれから先も一緒に暮らしていくことは、遅かれ早かれない、
 
でも、少しでも、
「温かい家族」に憧れのあった私は、「離婚」はとても、辛く悲しく、それがまた悩みの種となり、
 
何かいつも考え事をしていました。
 
小学校でもそれなりに楽しく過ごした時期でもありますが、当時を振り返ると、楽しかった思い出より何より、
 
家庭環境にいつも自分の感情が、振り回されて、今でも染み付いたトラウマはたくさんあったなあと気付きました。
 
 
離婚はする、しないを、両親が話を繰り返しながら、
泣き叫ぶ姉と私のために、とりあえず小学校卒業するまでも、延長になり、
 
不仲ではあっても、離婚については両親もちょこちょこ話し合っており、
すぐに、ではなくなりました。
 
母はほとほと愛想はつかして(というか父に対して愛情のかけらもない、憎しみだけ)、すぐにでも離婚したかったけど、
 
DVでありながら、私も母も、なぜかよく理解し難い、父なりの
「家族愛」
があったようで、離婚を持ち掛ける母に対して、離婚を拒んでいたのは、父です。
 
「離婚はしないでくれ」
 
と、いつも言っていました。
 
思えば、プライドや世間体というのを気にしていたのもあったと思うけど☆
 
 
 
両親はとりあえず離婚しないまま、私は小学校を卒業しました。
 
 
 
 
ガーベラガーベラガーベラまた、続きはいつか綴ります笑い泣きガーベラガーベラ