バングラデシュに行くと友人に話したら「見るものがあるの?」と聞かれた。「玄奘三蔵が訪ねたボグラの仏教遺跡とかグラミン銀行に寄る」と言ったら、友人はノーベル平和賞をもらったグラミン銀行には興味を示した。

 

バングラデシュは、日本の約4割の面積(北海道の約1.7倍)、人口は約1億6000万人、イスラム教徒の多い国。

 

 

バングラデシュは1971年、パキスタンから独立した。第二次大戦後イギリス連邦から独立する時、ヒンズー教徒が多いインド、イスラム教徒が多いパキスタン、仏教徒が多いセイロン(後にスリランカと改称)と分かれた。しかし西パキスタンと東パキスタンはインドをはさんで1000km以上も離れており、西パキスタンが主導権を握っていた。西パキスタンの主要言語ウルドウ語を公用語にするという政策が発表されるとベンガル語を主要言語にしている東パキスタンは、反発しインドの支援の下独立した。

 

 

バングラデシュはベンガルの国という意味である。ベンガル湾に臨み、ガンジス川の下流域のデルタの国である。少しだけミャンマー(南東)と接しているが、国境はほとんどインドに囲まれている。ガンジス川が氾濫するとバングラデシュは水浸しになる。インドはガンジス川の上流で、バングラデシュの側が水を欲しいときには、水を止め、欲しくない時には水を流す。しかし、インドは、ガンジス川の上流なので強く出ることはできない。

 


この国の料理は、唐辛子や香辛料を使ったものが多い。ツアー14名の中に3回目、4回目の人がいた。その人たちは食事の時には、カップ麺やカップうどんをカバンから出してお湯をもらい食べていた。スーツケースの中は、それらで満杯らしい。食べるのはナンだけ。ツアー中、1回だけ田舎料理のレストランで夕食を食べたが、出てくる料理が余りにも辛く、みんなもナンだけ食べていた。後は日本人向けに料理を頼んでいたようだ。


ガイドのサディックさんは、40代。日本語が流暢。日本のこともよく知っている。それもそのはず、語学留学し、鬼怒川グランドホテルでバイトしたこともあるという。大きなお皿にエビの活き作りを運んでいたとき、滑ってお皿ごと落とし、高価なお皿がだめになり、それ以上に、料理が間に合わないとこっぴどく叱られ、クビになりかけたそうだ。

 


 

2016年7月、ダッカのレストランでイスラム教徒によるテロがあり、日本人を含む22人が殺害され、一時、ツアーは中止されていた。再開された私達ツアーのバスの前には、いつも観光警察というミニバンに4人乗った警備員がついた。そして、区間ごとに交代した。しかし、どういうわけか渋滞する区間は、観光警察もいやなのか先導しなかった。時々、ガイドがスピードマネー(賄賂)を渡していた。若い女性の時もあった。

 


グラミン銀行のグラミンは、村という意味。都市にある銀行は村の女性らにとって敷居が高い。村に支部を置き、少額低金利、無担保でお金を貸してくれるのがグラミン銀行である。グラミン銀行はチッタゴン大学の経済学者あったムハマド・ユヌスが1974年のバングラデシュ大飢饉の際、ポケットマネーを貧しい女性たち貸し付け、期日どおりに返還されたのを受けて1976年に融資を開始。1983年に特殊銀行として発足。2006年にノーベル平和賞を受賞した。

 

現在ユヌス氏は、グラミン銀行から離れていると支店では話していた。支店は国内に2568ある。融資を受けるのは自由に使えるお金を求める女性が多く、約845万人中97%が女性。グラミン銀行のメンバーになれるのは1家族1名のみ。男性が融資を受けるのはメンバーの女性が亡くなった場合の後継ぎのみ。女性は5~8人のグループを作り、一人が融資を受けて返し終わったら次の人が融資を受けるという仕組み(連帯責任はない)。

 

 

融資の使い道はそれぞれ。苗を買って花を売る。牛を買ってミルクを売る。ミシンを買って服を売るなど。いろいろ。融資を受けて、ニワトリの雛を育てている所を見学した。毎週開かれる集会も義務で、そこで識字教育、保健衛生の普及、家族計画などのプログラムが行われている。

 

私達は30人以上が集まった集会で、融資の返済ノートなどを見せてもらい、雛小屋を見学。みんな生き生きと自分たちの事業のことを話してくれる。夫のリキ車を買うために融資を受けた人もいました。

 


 

バングラデシュの若い人は、日本と同じくスマホを片手に持っている。私達ツアーがガイドの話を聞いていると、遠くから私達をスマホで写真を取り、私達が歩き出すと、一緒に写真を取りたいと近づいてきます。私は、若い男性からいつも声をかけられていました(日本では考えられませんが)。

 

新潟から参加した観光バスの40代のドライバー(男性)も行く先々で声をかけられて、写真を一緒にとっていました。「こんなにもてたのは初めて!」と嬉しそうに話していました。

 

ちいさな船に乗って、ハイキングに行ったとき、一緒に行った二人の若者をチェキで写し、写真をあげました。大きな船に帰ってくると、残っていた二人の若者も写真をとってほしいと。写真をあげると、食事の時のサービスが、他の人よりも良くなりました。

 

 


2月21日は、国際母語デーと呼ばれる国際的な記念日。この記念日は、1952年2月21日ウルドウ語を国語とする西パキスタンの政策に抗議した東パキスタンのダッカ大学の学生たちが、ベンガル語を公用語とするよう蜂起し、多くの死者が出た事に因んでいます。この日はバングラデシュの全ての学校で慰霊のためのイベントが行われます。

 

 

私達も朝早く朝食抜きで、船を下り(たまたま私たちはシュンドルボン国立公園のマングローブの森を巡っていて船に2泊していました)、チャンドバニ村の学校のイベントに参加しました。小学生たちと手をつなぎ、一人一人花を献花しました。その後、私達は船に帰りましたが、中学生たちは、横断幕を持って村の中をデモ行進していました。

 


 

ダッカは、バングラデシュの首都、人口は1700万人余り。ダッカの街で目につくのは「サイクルリキシャ」。近年は中国輸入の安価なモーター付き電動リキシャが多い。しかしダッカ市内は電力供給や安全面から禁止。街中は人力のリキシャが溢れている。

 

 

リキシャは会社(胴元)からのレンタルで、1日あたり120TK(タカ)(約150円)程度の借り賃を払い、それ以上の利益が出れば、運転手の懐に入るというしくみになっている。だいたい1日、600~800TKは稼ぐらしい。

 

 

人々の給料は、もちろん職業によって違うが、平均月収15000TK(22500円)くらい。日本の十分の一くらいか。賃金が低いためユニクロやしまむらなど日本の衣料関係の会社が多く進出している。

 

公務員や警察官は安定していて月収も高く、年金もある。軍隊は志願制。公的保険はない。みんなよく働いている。線路わきのスラム街も、悲愴感はなく、明るい。線路を道路として利用している。電車が来れば、退くだけだから私達も歩く。20分に1本くらい来るときも。

 

 

活気に溢れ、明るく穏やかで元気な国、バングラデシュ。食事は私にとって余りにも辛すぎて少し苦手だが、また行ってみたいなと思う。