▼ イギリス植民地への移民
イギリスの一部の北アイルランドと、隣国のアイルランドは、1900年代に大飢饉がきっかけで、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど、元イギリスの植民地に移民せざるを得ないという時代がありました。移民の数は、全人口の25%から30%と言われています。
▼ 日本の国策移民の歴史
例えば、日本で大飢饉、政治的な事情があり、25%の日本人が海外移住せざるを得なくなった。ありえない話です。でも、数字は大きくありませんが、実際に起きていた・・・。
その1) 先発隊
1900年当初、ブラジルでは、財政を支えるコーヒー農園で黒人の奴隷化が禁止されました。アメリカで奴隷制度が廃止になったことによる影響です。そんなブラジル政府は、労働者が減り困り果てていた。
当時、日本は、特に東北地方で失業者が増え困っていた。このため、国策でブラジル移民が推進されていました。うまい話しに人々は喜んでブラジルに渡りました。が、日本にいたときよりもひどい状況で、たくさんの人が亡くなりました。
その2) 1920年代から戦前
1920年代に続けざまに経済的危機が起きました。米騒動(1918年)、関東大震災(1923年)、金融恐慌(1927年)、大恐慌(1929年)。一連の不遇は、日本国内の農村に大打撃を与えました。
政府は、1925年から、移民の渡航費用を大きく支援し、大規模な移民を奨励しました。
1908年から1941年までの間に、 18万8千人がブラジルへと移民していますが、特に、1925年から1935年までの10年間の間だけでも、13万5千人がブラジルへと送り出されました。この時期は、ブラジル日系人たちからは、「国策移民の時代」と呼ばれています。
その3) 戦後
戦後、日本は、爆発的に人口が増え過ぎて人余りになってしまいました。困った政府は、ブラジルへの移民希望者を募り、1952年から1973年にかけ、6万人を移民させています。
◎ ブラジルに住む180万人の日本人(日本から移民してきた人たちの子孫も含む)
◎ ブラジル国内の日系人。赤が濃いほど多い。
その4) 高度成長期後の姥捨て山
その後は高齢者が増え過ぎ、国は面倒を見切れなくなると心配し、物価が安い東南アジアなどへの移民を推奨しました。オーストラリアもあったかも。
25年以上も前のことですが、興味があり、無料の説明映画会に行った覚えがあります。
希望者は、移民前に2か月間、泊まり込みで、その国のシステムや銀行手続きのことなど、詳しい説明を受け、語学学習のクラスに毎日参加できました。移民のための手続きも、全部、政府が手伝ってくれることになっていました。すべて無料。食事も無料。至りつくせりでした。魅力的でしたが、なんか変という気がして、応募はしませんでした。
決行した人たちの結果はというと、移民当時は、異国文化の珍しさや土地の人の親切さに大満足。日本人コミュニティーが結成され、みんな同じ決意できたので、居心地の良さ100%。
でも、5年10年過ぎると、祖国である日本が懐かしくなり、ひと家族、ふた家族と次々に帰国。やがて、日本人コミュニティーの結束力が弱まり、最終的には、地元に溶け込むことができた数家族だけが残されてしまった・・・。
帰ることができる祖国があることは幸せです。北アイルランド、アイルランドの人たちは、帰りたくても、祖国が貧しすぎたり、戦争があったりして帰れなかった。
あ、本題からかなりはずれてしまいました。
貧困と潰瘍性大腸炎/クローン病の間に関連があるのか、次回、再挑戦です。
https://crohnsandcolitis.org.uk/media/4e5ccomz/epidemiology-summary-final.pdf