わたしが思うわたし
他人が思うわたし
わたしも他人も知らないわたし
批評家 小林秀雄は
「彼は科学者にもなれただろう、軍人にもなれただろう、しかし、彼は彼にしかなることはできなかった。これは驚くべきことではないか。」
と記している
他人が思う「わたし」に苦しいことがある
誰もわたしが何者か知らない場所に行くと
爽快である
人と知り合うと少なからずも
自分がどんな人間か開示されていく
それって
やっぱり
どうでもいいものだと近頃思う
『「○○な自分」という自我のパーツを増やすことによって私たちの心は、かえって窮屈になり、ガチガチに固められてしまう』
それは他人が思う自分であり
自分が思い込んでいる自分でもあろう
『「自分はこんな人間なのだッ」というこだわりを離れ、何者でもなくなることの中に、心地よさがある』
あるがままの自分でいたい人には
そのこだわりを捨てたいだろう
けれども
そのこだわりがないと生きていけない人もいる
劣等感を隠すために
人より優越であることを喧伝する人とか…
『他の何かや他の誰かによらず、ただただ精神的に“自給自足”できること』
わたしはこちらの方が好きかな
他人が思う「わたし」を知ったところで
「あーそうですか」程度の感想で
むしろ
「わたし」が人生の舞台で演じている芝居を
どこかで「わたし」が眺めている感覚
けっきょく
わたしは何者でもないけど
何者でもあるということ…か
「好きでたまらないものを忘れる」
と 著者 小池龍之介は言う
『それらに依存しすぎてそれらに振り回され一喜一憂していた状態から離れて、いったん「もしもそれがなくても大丈夫」という強さを心に宿すこと』
なくても大丈夫だと
今 夢中になっていることに言えるだろうか
わたしにとっては
空手と流鏑馬と…いろいろ
なくても…と思ってみたら
不思議とスッキリした
「わたし」に戻ったみたいだった
「それ、どうでもいい」って
心の中でつぶやいてみると
意外と自分の我がしがみついていたことがわかる
自由になるための練習…
いろんな「こだわらない」練習が書かれている
最後までお読みいただき
ありがとうございます