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母は最近、
「 おばあちゃんが言っていたことが、今になってわかってきた 」
とよく言う。
起床して動き出すまでに30分かかるようになったと、
言ってからの言葉だった。
足腰がはって、
腿の裏が痛いそうだ。
さすりながら動いていると、
らくになって普通に動ける。
「 昔、よくおばあちゃんがそう言っていたの。聞いているときは、そんなもんなんだって、軽く聞いてたけどね 」
自分が経験して初めて、
わかることがある。
失って初めてわかる有難さ … は、
生きていくなかで、
ある種の教えのようなものなのかもしれない。
失わないで、
避けることはできないのか。
「 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な言葉は、
山本常朝( 口伝 )の『 葉隠 』にある。
ショッキングな言葉だ。
これは、
武士に死ぬことを勧めているのではなく、
日頃、
死の覚悟をもって生きること、
さすれば、
自由の境地で生きることができると、
説いているらしい。
この『 葉隠 』に感銘を受け、
心の伴侶としてそばに置いていたと言ったのが、
三島由紀夫だ。
三島の解釈を読まなければ、
『 葉隠 』を、
論語的窮屈さや男尊女卑、
戦争容認などの思想として勘違いし、
読むこともなかっただろう。
『 葉隠 』は、
江戸時代中期に書かれた武士の心得だが、
読んだら燃やすようにと言われた聞書は、
ひそかに写本として残った。
戦中、青年軍人たちの覚悟を固める書物として読まれたが、
のちに、三島由紀夫は「生の哲学」を見出した。
『 葉隠 』は、
「 太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたもの 」
そして、
平和ボケとまで言われるようになってしまった戦後、
「死」は、
「 劇薬としておそれられ、はばかられていた」。
三島由紀夫は、
山本常朝が、
「 その劇薬の中に人間の精神を病からいやすところの、有効な薬効を見いだしたこと 」
を評価している。
「 人間の生命のはかないことは、いまも昔も少しも変わりはない。」
たしかにそうだ。
刀で切られることはないが、
車にひかれる危険が日常的にある。
明日生きている絶対的な保証は、
誰も持っていない。
「 われわれは死を考えることがいやなのである。死から有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。」
「 毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てること 」
「死」だけは、
生きているうちに経験できない。
少なくとも、
他人の「死」をもって、
「生」の価値を思うしかない。
メメント・モリ…
ラテン語で
「いつか死ぬことを忘れるな」という意味。
芸術作品のモチーフにもなっている。
哲学者 田辺元は、
「死の哲学」を提唱したことで知られている。
論文の題名が 「メメントモリ 」。
快楽や繫栄を無反省に追求した結果、
人を豊かにするはずだった科学技術が、
人の生命を脅かすようになってしまったと、
田辺は論じている。
それを打破するため、
「 メメントモリ 」の思想に立ち返るべきと主張した。
先日、
ウクライナとロシアの戦争で、
ドローンで爆弾を落としている映像を見た。
ドローンはそもそも、
空から美しい自然を撮っていたのではないか?
それを見て、
わたしたちは感動していたのではないか?
気づいてからでは遅いことがある。
わたしたちはそれに気づかなければならないと思う。
【 今日の想い … 】
「 科学の使命は、誤りを正すこと。生命の使命は、誤りを許容することにある。」
読み人失念
「 最も強い希望は、絶望から生まれる 」
バートランド・ラッセル
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