先日、あやかみちゃんのクニヅクリ☆レッスンに参加しました。

 

↑校長先生

 

 

 

クニヅクリ☆レッスンて何?という方は、あやかみちゃんのブログをご覧ください。

 

 

 

私が参加した回のお題とゼウ氏からの回答、

そしてレッスンマスターであるあやかみちゃんのレポートは、こちらをお読みください(他人任せ)

 

 

 

 

 

上記リンクを読まれた上で話を進めます。

 

 

 

 

 

真実は真理でした。

確かに、辞書に書いてある意味よりしっくりきますなぁ。

 

 

だったら最初から「事実と真理」でお題を出せば良かったのでは?とも思うけど、真実とは?を考えさせることにも意味があったのだろう。

 

 

 

 

 

真理をベースにジャッジする

 

 

じゃあ真理ってなに。

 

 

真のことわり

変わることのない真実の道理

 

 

光も闇もひっくるめても、立場で変わるようなものではない。

 


例えばだよ、例えば、

規模の大きい例えになりますが、


宇宙が存在できるバランスというものがあって、

光と勢力と闇の勢力がいて、一方が増えすぎてバランスが崩れるなら、増えすぎた方はある程度減らないといけない。



減る立場が自分なら受け入れられるか。

真理ベースでジャッジするなら受け入れますな。

自分はいいけど、減る対象が愛する人の方が判断が鈍りそう笑





 

クニヅクリ☆レッスンに参加する少し前に、思索していたことがありました。それは

 

 

「愛は憎しみに変わる」と言うが、愛はどこまでいっても愛ではないのか。「憎しみ」に変わるのは「愛情」ではないのか。なら、私の都度の行為は「愛」か「愛情か」。「愛の目線に立てているか」。

 

 

↑これはあくまで私の考えね。「愛」という表現は人によって変わりますから。

全てが愛でもありますが、それはここでは置いておきます。

 

 

私個人の感覚では「愛」の方が高度で厳しくもあるイメージです。

 

 

「真理をベースにジャッジする」と「愛の目線に立つ」は近い感じがしますが完全に同じ感じではないですね。

 

 

 

 

 

前回まで「怒り」の記事を書いてましたが、感情に振り回されていれば、冷静な判断はできない。

 

 

感情は感じた上で、どう判定するか。

 

 

それも一つ、真理や愛に近く道だと思う。

 

 

 

 

 

真理をベースにジャッジする

 

 

結局じゃあどういうこと?

 

 

んー、

今までより更に視点を高くして、だけど解像度も上げていって、そのときできる私の最良を一つ一つやっていきます。(長々書いて、結論それ笑)

 

 

 

 

 

まあ愛だ真理だ書きましたが、愛に限って言えば

 

 

ケプリさんなんかは「愛」という表現をしませんが、いろんな人から「愛を感じる〜」と言われているで、私みたいに思索をしなくても愛ある人間にはなります。大丈夫です。

 

 

思索は私の趣味です!

 

 

 

 

 

あやかみちゃんのクニヅクリ☆レッスンは違うお題でまた開催されますので、気になる方はこちらをご覧ください。