成田某の「老人集団自決論」が論外なのは それが大真面目に「死刑なのだ」という「バカボンのパパ級の | ☆恋する夫婦のROCKn' RIDE!☆

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「新」経世済民新聞 2023年3月23日…

藤井聡先生の寄稿より転載致しましたヾ(・∀・)ノ

 

 

 

 

 経済学者の成田悠輔氏の、少子高齢化問題をめぐって「唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなことしかない」と発言した事が再び話題となっています。

 

 この度山本太郎議員が国会で岸田総理に、この成田発言に対する見解を求め「極めて不適切な発言」だとの答弁を引き出したという顛末があったからです。

 

 当方はこの成田氏の発言についてあまりにも馬鹿馬鹿しいものでしたので、ほぼスルーしていたのですが本日、上記報道を目にしたので改めてあれこれ見てみたところ、成田氏の「老人集団自決論」に賛同する声が、世間に多数存在しているという点に大層驚きました。

 

 非常識な愚者が一人騒いでいるだけならまだしも、一定の世論支持を受けているという状況そのものが深刻な問題でありますから、今日はこの成田発言の何がダメなのかを改めて解説したいと思います。

 

 彼の発言がダメな最もシンプルな理由は、
 

「何、非常識なこと言ってるのだ。論外だ。」
 

 というもの。

 

 つまり「成田老人集団自決論」は、世間の「常識」(common sense)から考えてあり得ない暴言だ、というのが、最もシンプルな理由です。さらに常識的な視点から成田氏に対して、次のような言葉を繋ぐこともできるでしょう。

 

「お前の愛する祖父母、あるいはお前の愛する人が祖父母を愛していたとしても、自決しろとその言葉を投げかけて、心の痛みや違和感を微塵も感じないのか?というかお前が老人になった時、気分良く自決できるのか?」

 

 そんな訳はないわけで、もうこれだけで、成田氏の言説が論外だという点が見えてきます。

 

 もちろん、最低限の思想的訓練も受けていないであろう愚学者達(ならびに、それを支持する一定数の国民)にとってみれば、「常識」といっても何が重要なのかを理解できておらず、上記の様な批判を差し向けても、「常識!?馬鹿かお前?」という逆反応しか返ってこないと思われますが、保守思想についての最低限の教養がある者にとってみれば、以上の説明だけで十分、成田氏の老人集団自決論が論外であることが見えてきます。

 

 そもそも「常識」というものは、長い歴史と伝統の中で紡がれてきた英知の結集であって、全ての善悪判断の根幹に位置するものであり、これなくしてあらゆる倫理的判断、善悪判断が溶解することになる、人間社会にとって最も大切なものです。そして、その「常識」に照らし合わせて考えれば、この成田発言等論外だという結論以外ありえない、と言うことになるのです。

 

 …とはいえ、以上の説明は、「常識」を重視しない、場合によっては意図的に軽視し、無視しようとする人々にとっては一切の説得力を持ち得ないでしょう。

 

 ついては、より突っ込んだ成田氏の集団自決論に対する批判を申し述べたいと思います。

 

 まず、「解決策は集団自決だ」、という成田論は、煎じ詰めれば「集団自決すべきだ」という論であり、さらに言えば「集団自決を強制すべきだ」という論理となります(実際、成田氏は、「尊厳死の強要」まで言及しています)。

 

 なぜなら、「集団自決が解決策だ」という成田論を真に受けた政府が「よしわかった。『老人』認定した人物は自殺すべしという法律を作ろう」といって作ってしまったら、国家権力の下、『老人』達は、「強制的に自殺させられる」事になります。が、それは「自殺」という言葉を使ってはいるものの、「老人を全員殺害する」「老人を全員死刑にする」ということと全く等価となります。

 

 つまり、成田発言は「老人は殺すべきだ」という構図を持つ、「全老人死刑論」であり、「全老人殺害論」であり「全老人虐殺論」なのです(もちろん成田氏はそうは言ってない、と言うでしょうが、これは「論理の構造」としてそうなっているという話です)。

 

 そもそも自決=自殺というものは、例えば、エミールデュルケイムの「自殺論」に準拠すれば、「その行為(あるいは不作為)が死を導くことを認識しながら『自ら』その行為(あるいは不作為)を行うこと」。

 

 そして成田発言は、「自殺したくない」という自殺の意図がない老人に対しても、「自殺させられる」という状況をつくるべし、というものですから、これはもはや「自殺」ではなく、そこに死に対する強制、すなわち「殺人」です。

 

 つまり彼の発言は定義上「自殺論」ではなく「殺人論」なのです(仮に洗脳して自殺に追い込んだとしても、その洗脳によって死が導かれることを意図して洗脳するわけですから、定義上、殺人、と言うことになります。法的に厳密に言うなら、限りなく殺人に近い自殺教唆という事になるものと思われます。十分刑罰の対象となる重罪です)。

 

 ここまで論理を展開すると、「殺人はダメだろう」と多くの国民が彼らの「常識」に基づいて同意するでしょうから、結局成田論は、概ね全ての国民に否定される事になる筈です。

 

 しかし、実を言うと、「殺人」も法的視点、正義の視点から是認されることもあり得ます。

 

 それは、「死刑」です。

 

 しかし、「死刑」というものは、人が生きていく「資格」がある範囲(つまり、人としての矩)を定め、その範囲を逸脱したことが(厳正な裁判を通して)社会的に合意された場合に、その人を「生きていく資格はない」という主旨で「殺す」ことを社会的に是認する、という制度です。

 

 成田氏の発言が、こうした「死刑」制度を想定して発言していたとするなら、一定程度の正当性を持つ可能性がありますが…それはあり得ない、と即座に断定することができるでしょう。

 

 そもそも成田氏の老人自決論は、(彼が一体何をしてそう定義しているのか判然としませんがとにもかくにも)「老人」と認定された瞬間に「死刑」を執行するという形式のものですが、もしも、その程度の認定で死刑を執行することが是認されるなら、「人としての矩」を大幅に「狭いもの」に抜本改定しなければならなくなるでしょう。

 

 つまり、「老人」が「人としての矩」を外れた存在だ(つまり、「人ではない」)と認定するのならば、病人やけが人や力の弱い者、はてはおカネを持たない貧困者や偏差値の低い者等が皆「人としての矩」から外れた人々であると認識され得る事になります。

 

 万一、成田氏がそういう想定でかの発言をしたのならば、少なくとも思想的な一貫性は存在するということは言えるかも知れませんが(もちろん、それでも当方は彼の発言には一切同意しませんが)、成田発言は、そうした抜本的な「人としての矩」についての改変について一切言及していません。

 

 したがって、彼の言説は、非常識であるばかりではなく、思想的一貫性を著しく書く極めて稚拙なものであると言わざるを得ないものです。

 

 それにも関わらず、なぜ多くの国民はこの成田発言を支持するのか…

 

 それは第一に、(成田氏を含む)多くの国民が既に「歴史と伝統の英知である常識」を喪失してしまっているからです。

 

 そして第二に、成田発言が「老人全員死刑発言」「老人全員虐殺発言」となっている点に(成田氏を含む)多くの国民が思いが及んでいないからです。

 

 仮にそれに思いが及んでいたとしての、「老人全員死刑発言」を是認するためには、「死刑が想定する『人としての矩』を大幅に改訂する必要がある」という点にも思いが及んでいないからです。

 

 つまり有り体にいって、成田発言の主旨を読み取ることができていないからです。

赤塚不二夫の「天才バカボン」のパパが、よく得体の知れない理由で

 

「死刑なのだ!」

 

 と言っていましたが(来週の予告コーナーの最後に「見ない奴は、死刑なのだ」と毎週言ってました 笑)、かつて我々はそれを、見て「そんなんで『死刑』って、大げさな…そんな筈ないだろ!こいつホント馬鹿だなぁwww」といって、皆で腹を抱えて笑っていたわけですが、そんな事になっている、っていうことに、成田氏を支持する多くの人も理解できていないのです。

 

 赤塚不二夫が今、生きていたら、この成田現象を上手にギャグ漫画に仕立て上げることができるんじゃないかと思いますが…それはさておき、皆さん、バカボンのパパが逆説的に示していた、大人としての「常識」を日々、しっかり鍛え、馬鹿馬鹿しい成田発言になど、騙されないようにしっかりと地に足を付けて、日々の生活を営んでいただきたいと思います。