それでも、玉ねぎの薄皮をはぐように
川の下に沈殿した泥をかくように、また舞い上がる次のわずかな濁りはあります。
また、人との会話の中や、起きる現象の中に、捨て去ったはずの最後の観念を確認することが出来たりします。
今日
の記事は、思念上の覚悟と
観念上の覚悟は違うというふうなことを書いておりました。
つまりは、思念上でした覚悟で動いてみても、同じパターンで、動かない際には何処かに不安感や恐怖を感じる観念が隠されていると。
最近は、本当に腸も、観念も自分で掃除出来るようになったので。人の手を借りずに済んでいます。
ただ、なんだろう~。
決心した覚悟したものが、観念から外れているのに引き戻される感覚は、、と
バシャールの記事にあるので、ハッとしました。
私が度々思うのは、相手の会話の中に、自分を低く見積もる波動を見つけたとき(私もやっちゃってたな~
。反省)
![](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/2510.gif)
また、場所や環境による、集合意識の全体的な低いエネルギー。
相手の観念が動かない場合に、それにより起こる摩擦にエネルギーを使う。
だから、周りは選んだ方が良い?望む未来にシフトした方が抵抗がないんでは?と思うのです。
可能性を感じる人や乗り越えた人が発する言葉と、可能性を感じてない恐怖感や不安を信じた方の会話のエネルギーは違うからです。
循環にも、バランスや相性があるな、と感じています。
特に、うちの母は本人は前向きだと思っていますが(いわば、色々な困難を乗り越えて来たと言う意味での)かなりネガティブな思想や観念の持ち主です(被害者意識。自分はこれぐらいパターン)
私もそうかもね~笑
狭い世界観でもあります。
かなり、私から努めて前向きな、安心感のある、可能性のある価値観を刷り込んで変化させて来ていますが、、、
まだまだゆっくりじっくり取り組んでいます。共同作業なのかもしれませんね。
だいぶ、お互い変わりましたけどね。
私自身も、周りの人で良いな!という人の言動や行動を真似たり(荒手のTTP=徹底的にパクる)。
大きく活躍している憧れる方は、会いに行くようにしています。そうすると、自分の変化が早くなるようになりました(だから周りの低く見積もる波動=それまでの自分。とのズレが敏感なのかもですね。既に自分が次に移動しているから。。)
見えるものより、見えないところの方が難しいですね。