はやくできないかなカレーライス | 山本清風のリハビログ
 杉野服飾大学の食堂でカレーライスを食す。自らのキャンパスライフ、というようなものを翻ってみたとき私は凡そ、カレーを食べるということしかしていなかった。当初250円だった学食のカレーは私の熱心な後援によってか知らぬが、途中から200円になった。溶けている、と思いたかったが具は玉葱と、挽き肉めいた残滓のみ。ルウを湯で溶いたもので白米を食べている感覚になるが、それでも食べ続けた。食べるしかなかった。それ以外ほかに手だてがないよう思われた。

 だが聞茶も飲んでいた。現在存在しない聞茶は烏龍茶であり、いまにして思えば凍頂烏龍茶の香料が施してあったのか、非常に美味だった。授業中、宅録中、スタジオ、何処でも何時でも飲んでいた。私は缶ボトルにこだわった。ペットボトルのものも市販されていたが、飲み口にまつわる香りが異なるのだった。なければ徒歩して缶ボトルを探し、求めた。いつも唇を烏龍茶に濡らしていたのだった。そのうち、聞茶セットが当選した。

 歯科医が云うのには、現代人は唾液の分泌が退化しているのだという。昭和にはたしかに水を節制する文化があり、現在は逆効果とされている運動部での節水トレーニングも常だった、和食に於いても水分摂取しながら食事するのは不作法と云われた、水とは我慢するものだった。しかしながらペットボトルが発達して私たちは凡そ場所を選ばず水分摂取できるようになった。私にはそれがありがたかった。それでなくとも心が乾いていたのだ。舌の根も乾かぬうちに嘘を紡がねばならない年代を、生きていた。

 寺山修司ならばきっと「水を持ち歩くなんて、そんなことをしたらどれが本当の水か判らなくなってしまうではありませんか」と書いたかも知れない。家庭にある台所、母が捻る蛇口だけが水源でありそれを不確かにしてしまうことは、たしかに源を見失うことなのかも知れない。水分(みくまり)の神は田の神であり山の神であってかつ海の神でもある。水上他界たるニライカナイへの憧憬を忘れることは想像力の枯渇と同じ地平にあるだろう。女性礼賛を欠く文化かも知れない。私は、水を求めて森の奥深く茂みへと唇を寄せる。

 だから、私の陰茎を握りしめていた世志子(せしこ)がそれに〝つばき〟を垂らそうと努力するも「あれ、っかしいな」彼女の唇と私の陰茎が一本の糸で結ばれることはなくても、仕方のないことだと私は思う。大文字に横たわって顔だけ起こした私は「構わないよ」と云って、スサノオのように母なる国を海の彼方に憧憬した。潮の薫りがしている。