時間認識能力うすうすな私はいつも、慌ただしく自宅を飛びだしたのち、駅までの道すがら、思うのである。果たして鍵は閉めたろうか―――? と。
鍵穴に挿しこまれた鍵、廻し、一旦ドアノブを引いてはきっちり・かっちりロックされていることを確かめる。や否や、猛然と階段を駆け降り高架下を疾駆しているうち、記憶は飄然としてしまう。何処の馬の骨とも判然とせんようになってしまう。
何故というに急いでるからであろうし、焦っているからであろう。ドアの前での記憶がすっぽり欠落せられて、道中すこぶる不安。これを“不安の可能性”と呼んでみよう。
「呼んでみよう」と背筋を伸ばし高らかに命名したところで、不安はつゆも霧消としない。おかしいなこれは。世の人には病気か否か判然とせぬ状態でカタカナの精神科へゆき、「あなたはこれこれこういう病気です」と命名されると、病気でもないのに「ああやはり病気であったのか、安心安心」と会社を有休したりなにかと好いそうなのだが。
しかしこれは考えてみるに、“可能性”という単語が効いている気がする。我々は、特に私は、というか私は、可能性という言葉に期待し過ぎるきらいがある。可能性という言葉には「いつか宝くじが当たる可能性」から「明日総理大臣になる」可能性まで大いなるマジックがある。トリックがある。というか私が勝手に信じてしまう。
ですからこれは“可能性”の逆噴射ということになろう。ネガティブな発想に“可能性”を付加してはならないというのが、今回の教訓だ。結論はでたけれどもまだまだ書いてみたいことには、ガスの元栓は閉まっているか、窓の鍵は、親兄弟家族恋人友人の身になにか起きやしないか。いち時に心がすり減ってなくなってしまわないか心配なほどに、心配なのである。これは臆病であることは勿論、平素私が可能性を信じすぎることの副作用だろう。
なんてことだ、蒼井優が可愛くみえる……。
これまで彼女をして、演技派であるとかキャラ立ちしているのだとか云うなら解る、あろうことか“可愛い”なんていう評価は決まって女性がのたまうものであって、男性は女性が云う可愛いをなにより信用していないのであり、どうしてしまったのであろうか、私は。
などという“かわいいの定義”が揺らぐのは、意中の異性が鼻糞を穿ったるばかりか壁になすりつけて満足気、だとかたこ焼きはマヨネーズかけない派閥なのに問答無用でかけられた、とか太陽が黄色かったなどの精神的大地震に於いては仕方がないとは思う。人間だから。とまれ可能性の定義自体が揺らぐのは不味く、刹那諸刃につき刺さってくる兵器めいていることを忘れてはならない。
遅筆なほうである。本来ならブログ一本仕上げるのに一週間は欲しいところであり、生来こり性のきらいはあるものの、現在書いている長篇小説はなんたるちあ、さんたるちあ。五年前から書いている。 同様に、遅漏なほうである。一瞥して即座「自慢かよ、この禿げかけ」とするのは早計というもので、なおかつ結果待ちの事項を孕んでいる。以前も書いたことだが、遅漏はなんら好いことではない。内臓を擦りあわせるさい、余計な摩擦係数にすこぶる評判が悪い。時代も仕事も、早漏が求められているのである。
と、こちらも可能性の魔力にふりまわされている。可能性とは美女であり、万能の叡智であり、火であり鉄であり核である。太古の人々がそれらを便利であると同時に畏敬し、奉ったように私もまた祠など拵えて祈ったほうがいいかも知れない。その可能性がある。
ですから近々、東京二十三区には“可能性神社”という箱を祀った神社が完成するはずで、箱は「開けるまでは参拝者の望みがなんでも入っているが、開ければ中身は即座に消え失せ、空となるなり」と縁起にもあるように、人には空の箱に祈る、或いは黙殺する、そのようなぶれない軸が求められているのである。自分で考え行動するということがなにより肝要である。
という神社ができる可能性がある。